愛だなんて、

 ──ああ、またか。  それまで一心に本のページを繰っていた少年の手が不意に止まった。  動作を中断したことで訪れるはずの静寂は待てどもやって来ず、代わりにガラスを叩く乾いた音が鼓膜に焼きついていく。  少年は胡坐をかいたそのままの体勢でベッドに倒れこみ、視線は上部に位置する天窓へ。胡乱な眸で音の正体を捉え、またか、と再度浮かんだ言葉を、今度は口に出してみた。  少年の音は不規則に打ち鳴らされるそれと混ざり合うことも像を残すこともなく、ただかき消える。  打ちつけるそれはたしか『雨』と言っただろうか。  まだそれを知って日が浅いだろうに、脳内の引き出しから名前を探し出すのに随分と時間をかけてしまった。 「…『雨』は、すべての生命にとって必要不可欠なもの」  ようやく雨の全容を取り出すことに成功した少年は、その情報を喜々として伝えた少女の姿を思い出しふうと息をつく。  ***  許嫁だという少女は、自室に引きこもってばかりの少年のもとを連日訪れては、自身の知り得る知識や事物、それからその日の出来事を話していく。  たとえばそれは少年の定められた未来の話だったり、今回の『雨』の話だったりするのだが、どの話題を持ちかけるにしろ彼女は必ず笑顔だった。  大した相槌を打っているわけでもなく、大きな反応を示しているわけでもないのに、しかし少女は決まった時間に来訪する。 『お前、なんで俺のトコに来るんだよ』  少年は以前、土産話を持ち寄りいつものようにやって来た少女に疑問をぶつけたことがあった。  正直に言えば、少年にとって少女の存在は煩わしい以外の何物でもなかった。望んでもいないのに自身の殻の中へと押し入り、高慢で不遜な態度で、垣間見ることのない世界の話をする、そんな少女が大嫌いだった。  問われた彼女はしばし黙考し、それから不意に立ち上がり窓辺に歩いていく。  ──そういえばあの日も『雨』が降っていた。  冷たいガラスにふれひとり立ち尽くしている彼女が、まるでこの世界でただひとり取り残されてしまった者のように見えて。声を出すだけで、その音だけで、少女という存在がかき消えてしまいそうで、少年はただその背を見つめる。  彼女の手が放射線状に動くと、その部分だけが鮮明になり、外界を窺う唯一の手段となる。  雨はひどく打ちつけてくる。 『…わたくしは、この世界をあいしていますわ』  人も、街も、動物も植物も、この雨さえも。 『だから、貴方にもすきになってほしくて』  この世界に存在する貴方をあいしてほしくて。  振り返った少女が浮かべるのはいつもの笑顔。まっすぐ己を見つめる翳りのない眸には、世界で一番大嫌いな姿が鮮明に映し出されていた。  ***  気怠い身体を起こした少年は、読んでもいなかった本を放り投げる。宙に投げ出されたそれは重力に従い、鈍い音を響かせ絨毯に落下した。その音は先ほど発した音と同じく、存在を残すことなく霧散する。  すきになる気などさらさらなかった。  けれど、それほどまでに少女にあいされた世界を──『雨』とやらをこの目で見たくて。  少年は歩を進め、わずかに傾ぐ扉を開き外へ出た。 (世界が自分をあいさないから、俺は自分をあいせないだけだ)
 ルークが言葉を覚えて間もない頃。  2011.3.4