つまりはいとおしいのです。
夢ではないのではないかと思ったのは、それが触れてから数秒後のこと。
「──あら、」
ぱちりとまぶたを開けば、今や見慣れた机の白が目に飛び込んできた。照明を受けて輝くそれにつと、目をすがめる。
気だるい上体を起こせば、いつ掛けられたのか、薄い毛布がやわらかな音を一つ、床に落ちる。
先ほどの感触はやはり、夢だったのだろうか。考えても分かるはずもなく、首を傾げた。
合わせた両手を上に、く、と伸びをする。らしくもなくぱきりと鳴った関節に、わたくしももうそんな歳なのかしらとそれこそ年寄りくさい考えが浮かんだ。
「ようやくお目覚めですか、姫」
「っ、」
気配を感じなかった。もちろん、寝ぼけていたということもあるが。
ば、と振り向けば、数歩離れた本棚の前に立つジェイドと目が合い、笑いかけられる。
わずかに首を傾げた。音量からして、すぐ傍にいると思ったのだが。
「まさか、瞬間移動しましたの!?」
「まだ夢の中にいらっしゃるんですか」
「わたくしが見ているものすべてが幻影だと…そう仰りたいのですね」
「仰りたくないです」
こつこつ、響いては消える足音を立てながら、彼は近付いてくる。腰を屈め、床に広がった毛布を拾い上げた。
マルクトに滞在している中で、夕方のこの時間に彼の執務室を訪れることが、いつしか習慣となっていた。
訪れると言っても、別に何をするというわけでもない。ただとりとめもない会話をする、それだけ。
彼の話は─端々に含まれる多大な嘘と冗談を除けば─なかなかに興味深いものだった。
さすが知識人なだけあって、世界の細かいところまで知っている。自身の知っている世界はとても狭いのだと、改めて身につまされる。
さて今日はどんな話が聞けるのかと胸を躍らせ、ちらりと時計に目をやった。
「あら、もうこんな時間」
「どなたかがぐっすりと眠っておられるうちに」
「起こしてくださればよかったのに」
「心地よさそうだったので、つい」
「わたくしの可愛らしい寝顔を眺めていた、ということですのね」
「そんなことは一言も口にしてませんが」
「心の声を読み取ったのですわ」
「読み取り機能に重大なエラーが生じているようですね」
呆れた姫ですね。ため息をついた彼に、くすくすと笑いをこぼす。
ぽんぽんと交わされる会話のやりとりはとても心地がいい。側近や幼なじみとは違う、あたたかくなる会話。
「何を笑っておられるんですか」
「いえ、ただ」
とても、楽しくて。
珍しく素直に本音を出せば、彼は眼鏡の奥の目をらしくもなく丸め。そうですかと、口元をゆるめ一言。
「さ、もうお帰りなさい」
「いいえ、もう少し」
「姫が外出されるには遅すぎます」
促されるまま窓の外に視線を送れば、建物の影に沈もうとする光が空を照らしていた。
むう、と頬をふくらませる。
「毎日の楽しみですのに」
「寂しいお姫様ですね」
「余計なお世話ですわ」
ぷくり。駄々をこねる子供のように、さらに頬をふくらませてみた。
彼はため息をもう一度、
「お帰りください」
ぽん。手が頭に乗せられる。髪を乱さないように、ゆるりと撫でられる。
どこか覚えのある感触だった。
くせ毛を楽しむように髪を弄ぶその指を、慈しむように撫でるその手を、まどろむにはちょうどよいその体温を感じて、
「──やっぱり、」
手首をやんわりと掴む。彼の目が猫のように丸みを帯びる。
あなたでしたのね
夢と現実の境目で触れた手は、やはり。
つぶやくと、彼はただ笑った。
「ねえ、」
もう少し、このまま。
再び撫で始めた手は、あたたかかった。
(私のことが、ですね)
(違いますわ、断じて)
すきですわ、あなたの手が。
2012.9.13