それでもわたしは願いました、
この人にも弱いものがあるんだと、思った。
身体に伝わる、低い唸り声に覚醒を促された。
意味を成すまでには至らないその音は、わたしを抱きしめ眠るその人から。ひっそり、起こしてしまわないよう見上げれば、ロレーンがその端正な顔をわずかにひそめていた。眉根を寄せている様子はどこか苦しんでいるようにも見えて。ぴたりと眸を閉ざしているからきっと、眠ってはいるんだろうけど。
うなされているんだろうか、だけど、なにに。
眠っている間に見るものなんて、夢くらいしか思いつかないけど。
いままでに命を奪ってきた者たちが彼女を責めているのか、それとも幸せだった日々──もしくはありえないくらい幸せな日々に、現実との乖離を感じているのか。わたしにはわからない、だって彼女のことは調書上でしか知り得ないから。
そ、と。伸ばした指先で、乱れた前髪を整える。金糸みたいに細い毛先が薄暗い照明を反射し、きらりと光る。
少しでも楽になれますようにと。安らぎとは縁遠い世界に身を置いている彼女が、せめて眠っている間だけでも心を休ませることができますようにと。
ふと、彼女の表情がやわらかく笑む。
「──ジェームズ、」
落とされた音は小さく、だけどたしかに名前のように聞こえた。わたし以外の誰かの名前だった。
聞き覚えのあるそれに手を止める。
ジェームズ。そういえばリストを最後に受け取ったMI6諜報員は、ジェームズ・ガスコイン。
ジェームズなんてありふれた名前が本当に彼であるのかはわからない、でも、ガスコインその人であるはずだと、直感がそう告げていた。
親しい仲だったんだろうか。調書によれば一度、任務を共にしたとか。だけど意識のない状態であっても名前を口にするくらいなんだからきっと、それだけの関係であるはずがなくて。
前髪から指を離して、くっと、握りしめて。
目の前の長いまつげがゆらめく。そうしてゆるり、水面にも似た眸が姿を現して。
「ん、…デルフィーヌ…?」
──衝動だけが、わたしを動かした。
気付けば彼女のくちびるに自身のそれを重ねていた。重ねるというより、噛み付いたと表現した方が正しいのかもしれない。
まだ夢から完全には抜け出していない様子の彼女はまたたきを繰り返す。
抵抗する力が戻ってくる前にと、わたしより幾分も大きな身体に馬乗りになり手首をシーツに縫い止めた。
「なに、を、」
「しゃべらないで」
口づけの合間に疑問を吐き出そうとする、その呼吸ごと呑み込んで。
ロレーンが見せた、はじめての表情。窺うような、少しだけ、不安をにじませたそれ。
わたしと出逢う前、彼女が誰と身体を重ね、誰と心を通わせたかなんて、関係もないし問いただす権利だってない。そんなことわかってる、わかっているけど。
それでもこの、行き場のない感情は紛れもなく、嫉妬、だった。
なにもまとっていない肌は、眠る前の情事を忘れてしまったかのように冷たい。その肌にもう一度、わたしの熱を刻みたくて。少しでもわたしを、残しておきたくて。
「──わたしの名前だけ、呼んで、お願い」
ゆるりと、彼女がまぶたを閉ざして、眸の中にわたしを閉じこめて。
やわらかなくちびるが開く直前。言葉を聞きたくなくてまた、それを塞いだ。
(どうかどうか、あなたがわたしのことだけを考えてくれますようにと、)
だってわたしは、あなたの過去にはいられないから。
2017.10.31