別れの言葉は早すぎて、

「─…あなた、まだここにいたの」  第一声はひやりと冷たかった。  嫌な予感に突き動かされ、彼女が滞在するモーテルの扉を叩く。何度ノックしても一向に気配のない部屋に、もしかしてと、最悪の予感が過ぎったのは一瞬。無事に響いてくれた解錠音に胸を撫で下ろす。  だけど、室内に迎え入れてくれた彼女の顔は悲惨なものだった。  目の周りに残る生々しい青あざ。頬もくちびるもあごも切れ、拭いきれていない血液が肩まで滴っている。  襲われたのだ、彼女は。きっと、リストを暗記しているというスパイグラスを逃がし損ね、彼女自身も深手を負ったのだ。彼女は誰よりも窮地を脱することに長けているはずなのに、これほどまでの傷を受けるだなんて、にわかに信じられることではなかった。  ぽい、と。わたしの手の内に放られたのはフランス製の盗聴器。見覚えのあるそれに心臓が跳ねる。 「パーシヴァルに盗聴されていたの、全部」  苦々しく落とされた名前が、すべてを物語っていた。  彼女ほどの諜報員が、ただの強襲でここまで痛々しい姿になるはずがない。罠だったんだ、はじめから。きっと裏でパーシヴァルが手を引いていたんだろう、彼女を、ロレーン・ブロートンを排除するために。  まだフィルムに収めたままの写真を思い出し、奥歯を噛み締める。  せめてわたしが早くあの写真を渡していれば。危険だと告げるだけでなく、やめてと。行かないでと縋っていれば、もしかするとこんな傷を背負った彼女を見ることはなかったかもしれないのに。  わたしが懇願したところで、彼女のことだ、計画をふいにすることはないんだろうけど。  それでも、わたしが彼女にできることがもっと、もう少しだけでも、あったはずなのに。 「ねえロレーン、せめて手当てだけでも」  手早く服を着替え、コートを羽織ったその人にようやく言葉をかける。  見ているだけで痛みが伝わってくるそれはきっと、消毒さえもされていないはず。だけど彼女は無情にも首を振る、大丈夫だと。 「そんな時間はないわ。私が生きていると知ったパーシヴァルがじき、ここに来るはず」 「でもロレーン、」 「デルフィーヌ」  ふ、と。影が、立ち塞がる。  見上げるよりも早くあごをすくい取られ、くちびるが一瞬だけ触れ合った。錆びた鉄みたいな味。間近に迫った水面のような眸はつい最近、同じ距離で見たものとそっくりそのまま、やわらかなそれだった。 「私といるときっと、あなたまで狙われてしまうから、」  こんな状況だというのに穏やかな声は、ベッドの上でかけてくれる声によく似ている。 「──さようなら、よ。デルフィーヌ」  くちびるに、もう一度。  コートを翻した彼女は、視線さえも動かせなくなってしまったわたしを残して歩き去り、やがて扉を閉めてしまった。  震える指で、くちびるをなぞって。  わたしはまだ、なんにも役に立っていないのに。あなたの背中を追うことさえできないのに。  自分が未熟なだけであるのに、彼女がひどく、ずるい人のように思えてしまった。 「ロレーン…っ、」  吐き出した名前はもうきっと、届いてはいない。  それでもわたしは目尻を拭い、彼女と同じ方向へ走り出した。ひとりぼっちで走る彼女の助けになるために。  わたしにはまだ、やれることがあるから。 (だからもう少しだけ、あなたの影を追わせてください)
 すぐデルフィーヌちゃんを泣かせたがる。  2017.10.31