Also hat Gott die Welt geliebt,
鮮明に覚えていることが、一つだけ。
『アリアンナさん…、素敵な名前』
私よりいくらか背丈が小さく華奢な彼女は、ともすれば少女にさえ映った。穢れの知らない、うら若き乙女。こんな不吉な夜のただ中にあっても眸の輝きは薄れていなくて、私の名を紡いだ声は涼やかに教会の天井に響いて。
私にもきっと、こんな時代があったはずなのに、いまでは遠い昔のように感じる。それだけ欲に塗り潰されてしまったのか、それとも彼女の清純さがこの世のものでない風に思えるからか。
アリアンナさん。彼女がまた音をこぼす。
『まるで聖歌のように美しい響きですね!』
彼女が指しているのであろうアリアを、洩れ聞いたことがある。
聖歌隊が刻むアリアはまるで、神の囁きそのもののように響いていた。獣の蔓延るこの街さえ清浄な空気で包み込むような、そんな音。その中に彼女の音も含まれていたのだろうかと、そうであれば嬉しいと、なぜだかそう、思って。
あなたは、と。訊ねた言葉に、彼女が顔を綻ばせる。
『アデーラと申します、どうぞよろしくお願いいたします!』
まだ見ぬ天使のようにまぶしかったことを、覚えている。
***
「………っ、…この、……売女が………っ、」
荒い息遣いが、罵詈雑言が、ナイフとともに振り下ろされる。痛覚はとっくの昔に麻痺してしまっていて、いまはただ、身体に入り込んでくる鋭い異物感と、臓器が崩れていくぐずりぐずりという音に支配されるばかり。
耳に届く音に以前の清廉な響きはない。アリアを口ずさんでいたはずのそのくちびるが落とすのは、あふれんばかりの憎悪だけ。
ぽたり、ぽたり。もう機能を停止し始めているはずの自身が、熱い雫で頬を濡らしていく。
どうして思い出してしまったのだろう、どこで間違えてしまったのだろう。あのやわらかな天使の笑みを忘れたままでいたら、私の血が穢れていなければ、彼女と出逢っていなければ。こんなにも、胸が痛むことはなかったのに。貫かれるよりもなお痛みに震える心を抱えることなど、なかったはずなのに。
重いまぶたを押し上げ、もう一度だけ、世界とまみえる。
椅子に座る私に跨った彼女は振り下ろす、何度も何度も、私が壊れてしまうまで。記憶の中の慈愛に満ちた表情はどこにもなく。いやらしく笑みを広げた女が再びナイフをかざして、月明かりが反射して。
「……ど、して、…あなた、だったんです、か、」
ぽたり、ぽたり。こぼされる、私のものではない雫が、私のものではない音が。
幾度目かの刃が腹部に突き立てられる。ごぼりと、血液と、それから”なにか”があふれ、床へと滑り落ちていく。途端、ずっと頭に響いていた気味の悪い声が消えていった。それでも彼女は繰り返し腹を傷付けていく、表情とは裏腹のものを流しながら。
「あなたでなければ、わたしは、…わたしは……っ、」
私で、なければ。彼女にもっと近付けたのだろうか、穢れた身体が少しでも浄化されたのだろうか、彼女にもっと、名前を呼んでもらえたのだろうか、なんて。
重力に従おうとする手をなんとか伸ばせば、彼女の眸が一瞬だけ、色を取り戻したような気がした。その色にどうか、悲しみと、それから少しでいいから慈しみが含まれていますようにと。
「─…アデー、ラ、」
どこかでひそやかにアリアが奏でられている気が、した。
(ああけれど、最期に見たのがあなたの眸でよかった)
げに神はかくも世を愛し、
2017.9.12