ただ、すべてが狂っているだけだった。
今宵が、決行時。
袖の裏に隠し持ったナイフは、自身が映り込むほど磨いてきた。ナイフ越しにこちらを見返してくる女は果たして狂気に満ちた眸をしているか、いいえ、こんな赤月の晩だ、狂っていたとして誰が気付くだろう。だって誰しも、正常でないのだから。
ああ、特にあの女。気が触れている上に穢れている。なにが混ざっているとも分からない澱んだ血液を、あろうことか私の狩人様に手渡すだなんて。
許せない、許せるはずがない。狩人様が手を下せないのなら、私が、その息の音を。
足音を夜の闇に紛らせることなんて簡単だった。
短い距離を一つ、二つ、三つ、縮めて。真っ赤な月明かりの下、目的の娼婦はその醜い顔を垂れていた。見下ろす私に気付いているのかいないのか。どっちだっていい、この女が頭を上げる前に刃を突き立ててしまえばいいのだから。
今まで数多の欲にまみれた男たちに身体を売ってきた娼婦の血など目にしたくもないけれど仕方がない。今すぐに手を振り下ろし、狩人様さえも惑わそうとしたその顔を、身体を脳をかたちも残らないほど八つ裂きにぐちゃぐちゃにこの女は生きていてはいけないから今すぐに私の目の前からこの明けないせかいからそんざいさえもかきけして、
「──ねえ、」
視線、が、触れた。
頭上高く構えたナイフが、その言葉一つに押し留められる。
紅色の月に照らされているというのにその頬に生気は無く、眸は虚ろに揺れ、けれど確かに私を捉えていて。
躊躇わなければよかった、それ以上なにか言葉を吐く前に振り下ろしていればよかったのに。高々と掲げていたナイフを、目に留まるより先に再び袖の内に隠していた。
ふ、と。わずかな笑みを浮かべてみせた口の端から血液が伝い落ちる。赤い、あかい、血。私が流させるはずだった液体。恐らく気付いているだろうに、忌々しい微笑みはいつも狩人様に向けているものと変わらず、それどころかまるで親しみさえ感じさせるものだった。
くちびるに立てた人差し指を当てた娼婦は、しー、と。こんな闇夜には、獣の総毛立つ遠吠えしか聞こえないというのに。
「狩人様には、内緒、ね」
切り裂いてしまいたかった。こんな狂った夜にさえ自分自身であろうとするこの女の表情を絶望で塗りたくってやりたかった、そのはずなのに。
知らぬ間に、首を縦に振っていた。娼婦は満足したように笑みを深め、眸を閉ざす。
これがきっと最後の機会。けれど一度ナイフを収めた私はもう、再びその冷え切った柄を握ることは出来なかった。
近付いた数分前と同様に、一つ、二つ、三つ、元の場所へと足を進める。
果たして私は彼女の願いを聞き入れるのか。恐らく、否応なく願った通りになるのだろう、私も、彼女も、先が見えてはいないのだから。
そ、と。天井を見はるかす。
夜は、明けない。
(慈悲をかけたわけではない、私もまた、狂人に近付いてしまっただけ、)
マリアデちゃんは殺伐としてるくらいがちょうどいい。
2016.10.21