守れないとしても失いたくはない。

 音が、聞こえる。 「マリアさま?」 「…あ、ああ、どうしたんだい」  確かに聞こえた気がした、なにかが湿った音が。どこから響いたのかはわからない──いや、わかっている、けれど認めたくないだけだった。  頭を振り、耳にこびり付いた音を振り払う。せっかく彼女に会いに来たのだ、彼女自身の声を刻み付けなければ。 「わたしね、欲しいものがあるんです」 「なんでも言ってごらん。君のためなら、空に輝く星だって捕まえてみせよう」  半ば冗談で言っているわけではなかった。生まれた頃から血の聖女として育てられてきた彼女が、わがままなど口にすることなく生きてきたアデラインがこうしてお願いごとをしてくることさえ珍しいのだから。彼女が望むのならば、たとえ人の手には届かない星だって差し出してみせようと。  けれど彼女は首を振る、もはや頭と呼べなくなったそれを左右に。 「脳液」 「─…え、」 「欲しいんです、脳液が」  目が、見えない、あれほど澄んでいた目が、私を捕らえて離さなかった眩しい眸が、見えなかった。向けられているはずなのに、どうしたって窺うことはできなくて。 「なに、を、言っているんだ、アデライン」 「だめ、ですか」  すぐさま声が失望の色に染まっていく。肥大した頭部が重たそうにうな垂れ、背中にはくっきりと落胆を負って。  脳液、など、尋常な精神の人間が求めるものではなかった。けれど彼女は求めた、もはや人間と異なる頭部と化してしまった聖女はやせ細った指を伸ばし、おねがい、と。のうえきがほしいの、あたたかなそれをすすって、からだにしみこませて、 「わかったよ」  ぴちゃり、音が、忍び寄る。 「──わかったよ、アデライン」 「マリアさま…! うれしい、わたし、うれしいです」  笑う気配はかすかに、けれど私の目にはたしかに、微笑むアデラインの姿が映った。  愛刀に触れ、踵を返す。ぴちゃり、ぴちゃり、音が、追いかけてきた。 (君が笑ってくれるのなら、私はなんだって、)
 侵され始めた聖女と、ただ聖女の笑顔を願った狩人。  2017.2.26