深い、夜に。

 今宵も月が輝いている、おぞましいほどに。 「──じゃあ行ってくるよ、アデライン」  別れはいつも名残惜しい。己の感情だけなら殺すことは容易だが、ひとたび彼女の眸に映されてしまえば、義務も使命もなにもかもを捨てこの腕に収め離してしまいたくなくなってしまうのだから。  だから今夜は、言葉を一つだけ。そのやわらかな髪を梳くことも撫でることも指を重ねることもしなければ、未練も表には出てこないだろうから。  自身の獲物を携え、無限に続きそうな闇へと足を踏み出す。  くん、と。服が引っ張られる感覚に、身体が勢いを止めた。振り返らずとも原因は一つしかないが、それでも半ば信じられず視線を向けてみれば思った通り、俯いたアデラインが控えめに裾を掴んでいた。  いってらっしゃい、気を付けて──てっきり聞き慣れた言葉をかけられるものだとばかり思っていた。私を心配させまいと、寂しさを押し隠した笑顔を浮かべ、私のために祈ってくれる。それが毎夜の別れの儀式であり、励みでもあるのに。 「あっ、…すみませんマリア様、わたし…」 「…どうしたんだい、アデライン。言いたいことがあるなら言ってごらん」  慌てて離れていく手を取り、ぎゅ、と握り合わせる。顔を窺ってもなおも逸らしていくものだから、空いた片手で後頭部を捉え少し無理に視線を重ねた。  透き通った眸が頼りなく揺れ、固く閉ざされ。そうしてなにかを決意したように突然、両の腕を背中に回してきた。やわらかな体温が衣服越しに伝わってくる、私を安堵させてくれる、彼女だけの温度。 「─…いかないで、ください」  そうして落ちたのは、小さな小さな願い。いかないでと、繰り返されたそれは掠れて消えていく。背中を掴む手がかたかたと震えている、まるで叱られることを恐れる子供のように。  ああ、私はどれだけ、彼女に我慢を覚えさせていたのか。心優しい彼女のことだ、いまのいままで心さえ殺しただ笑顔を作ってくれていたのだろう。私が振り返ることなく狩りへと向かえるように、物分かりの良い聖女を演じて。 「…ごめんなさい、わたし、」 「いいや、それは私の台詞だよ」  小さな頭ごと抱き寄せる、強く、きつく。ゼロになった距離に一瞬腕の中の身体が強張ったものの、安心したようにすぐ力が抜けていく。 「今夜は、…今夜だけは、傍にいて、ください」 「大丈夫。心配しなくとも、今夜はもう、離れられそうにないから」 「ほんと?」 「ああ、本当だ」  喜びをほんの少し表情に滲ませ見上げてきたかわいらしい彼女のくちびるに、口づけを一つ。  漆黒の夜はまだ、始まったばかりだった。 (頼まれたって離れるものか)
 聖女さまだってたまにはわがまま言っちゃうんです。  2017.6.20