天使が天使に恋をした。
空模様とは反対に、あたしの心は晴れやかだった。今日は二ヶ月ぶりにママに会えるのだ、足取りが弾まないはずがない。
面会日、とパパは眉をひそめて言うけど、その呼び方は好きじゃなかった。実の母親と会うのにどうして日程や場所まで決められなくちゃいけないのか、それこそうんと小さいころから不思議に思っていた。だけどあたしが感情に任せて無断で会いに行ったらママの立場が悪くなってしまう。それに、昔は短かった逢瀬の時間も、時が経つにつれて段々と長く、機会も増えている。このままいい子にしていれば、いつかは自由に会える日が来るかもしれない。
ふくらんでいく期待に、足を速めた。
いつもは学校の帰り道にあるカフェかあたしの家で話に花を咲かせていたけど、今日はママの家で会うことになっていた。招待されたのははじめてのことで、さっきからどきどきが止まらない。
もらったメモを片手に、マディソン街をさまよう。
仕事の関係でどうしても迎えに行くことができないと申し訳なさそうに声色を沈ませていた昨日の電話を思い出す。こんな機会でもなくちゃ、ここに足を運ぶこともないから、あたしとしては嬉しかったんだけど。年齢を重ねるにつれ過保護に拍車をかけてきたパパは、寄り道も友達との買い食いも許してくれないから。
ようやくそれらしいアパートを見つけたところで雫が落ちてきて、慌てて入口に駆け込む、瞬間、まさにバケツをひっくり返したみたいな雨が降り始めた。息を一つ、部屋番号を頼りに階段を上る。
そうして行き着いた扉の前で深呼吸、ノックを鳴らして。
「─…あれ?」
「あら、リンディね!」
朗らかに名前を呼んだ人は、間違いなくママではなかった。
照明にとけるマロングレーの髪に、ママとよく似た色の眸に、どこか覚えがあった。そうして記憶をたぐり寄せて、最終的にたどり着いたのは十年も前のかすれた思い出。
「…テレーズ?」
浮かんだ名前は、ママがよく口にしていたものだった。そういえば同居している女性がいると言っていた気がする。ニューヨーク・タイムズで記者として働いている、明るくて、やさしくて、天使みたいな人だって。これは全部、ママからの情報。
それに、小さいころにも一度会ったことがある気がしていた。クリスマスも間近に迫った、ママとパパがまだ離婚していなかったあの日。デパートの店員さんだって紹介されたときの、あどけない笑顔がまぶしかった。
覚えていてくれたのね、と。まどろんだ子犬みたいに眸を細めたテレーズはきっと、あたしよりもうんと年上のはずなのに、どうしてだかかわいく見えてしまった。天使、そう、羽のない天使。ママが何度も繰り返していたその表現が的確だ。
いまだ見惚れてしまいながらも、促されてとりあえず部屋に足を踏み入れる。
「ごめんなさい、キャロルはまだ帰ってきていないの」
「ううん、大丈夫。あたしも早く着きすぎちゃって」
向かい合わせに置かれた椅子に、シンクにあるふたり分のコップ。たしかにここで、ママと、それからテレーズが暮らしているんだと。うらやましくないと言ってしまえば嘘になるけど。
「十年ぶり…よね」
「キャロルに写真を見せてもらっていたから、久しぶりな気はしないけど。そうね、もう十年になるわ」
「ママと暮らしてる、って、訊いたけど」
「そうよ。あの人の寝坊癖にはいつも手を焼いているの」
頬を染めて、それでもどこか楽しそうに笑うテレーズなら、いいと思えた。テレーズみたいな人がママの傍にいてくれるなら、ママがひとりでないのなら、それでよかった。
それにしても、と。ふと、近付いてきたテレーズを見上げれば、ほんの少し高い位置にある眸があたしを映していた。
「こんなに美人になって。キャロルそっくりね」
伸びてきた手がやさしく髪をすく、まるで昔、ママがそうしてくれていたみたいに。
肩を軽く引かれて思わず倒れ込んでしまえば、控えめにぎゅうと抱き留められて、息が止まりそうになった。ママと同じにおいに、ほとんど初対面だというのに不安はなくて。だというのに心臓はばくばくと動きを速めていた。
なにも言葉が出てこなくてとりあえず顔を上げてみれば、澄んだ色の眸とぶつかって。心臓がまた、跳ねる。この感情がなんなのか、あたしはまだ、知らない。
「テレーズ…、あの、」
ようやく名前を口にしたところで、がちゃりと扉が開く音がした。ぱ、と振り向いたテレーズの表情は、さっきよりも輝きを増しているように見えて。
キッチンの隅に置いてあったタオルを手にぱたぱたと駆けるテレーズに続いて玄関に向かえば、頭の先からつま先までびしょ濡れになったママが閉めた扉に身を倒していた。
「最悪だわ…、大人しくタクシーでも拾えばよかった」
「おかえりなさい、キャロル」
「おかえり、ママ」
「リンディ!」
テレーズからタオルを受け取ったママに声をかければ、途端に笑顔で駆け寄ってくれた。濡れているからか抱きしめてはくれなかったけど、頭を撫でて髪に指を通す。遅くなってごめんなさいねと、謝罪も混ぜて。
そんなママにつられて笑顔を返して。あのね、と。
「あたしもテレーズと一緒に暮らしたい」
「………待ってリンディ、いまなんて、」
「あたしね、」
まだ鼓動は収まっていないし、この気持ちの名前も見つかってないけど、自分の心はわかったから。揃ってまたたきをしたふたりに、その言葉を伝えるだけ。
「好きになっちゃったみたい、テレーズのこと!」
(遅れて意味を理解した天使が真っ赤に染まったのはそれからすぐのこと)
大きく鳴ったRとCの好み似てそう。
2016.3.9