元より世界はあなたの色に染まっていた。

(中の人のお話)  ひょい、と。逆さまに覗いてきた顔のあまりの近さに思わず息を呑んだ。  金糸のような前髪が重力に従って下へと垂れている、まるでわたしたちを世界から隔絶するみたいに。夕陽を思わせる赤毛も、夜の闇に似た黒髪であっても、彼女という女優の魅力を十分に引き立ててくれるんだけれどやっぱりわたしは、光に透けるこの色がいっとう好き。スクリーンの向こう側にいる相手を惹き付けてやまない、この色が。  グロスを引いたばかりのくちびるが形よく持ち上げられていく、彼女の役柄を象徴する赤が笑みを作っていく。 「随分熱心なのね」  肩越しに手が伸びてくる。カメラが回されているときはもちろん、それ以外の、キャロルという人物を脱いだ後でさえもわたしに触れてくる手が、指が、つ、と。わたしの膝の上で広げられたままの台本を指し示す。ページがよれるほど読み込んだ台本をもう一度見返していたところだったことを、そこでようやく思い出した。  相手役の台詞だって完璧にそらんじれるくらい頭に叩き込んだはずなのに一瞬、どこかへ飛んでいってしまいそうになって、またたきを一つ、なんとか押し留める。そんなわたしの様子がおかしかったのか、それとも他の理由でもあるのか、薄く灰がかった眸を細めた彼女はくつくつとのどを鳴らした。  ともすればのぼせてしまいそうな思考を早く冷ましてしまいたかった。そういえば彼女は車の運転指導を受けていたはずだけれどもう終わってしまったんだろうか、だとか、彼女に尋ねたところできっとだって私だものなんて過剰でない自信が返ってくるだけなんだろうな、だとか。そんなとりとめのないことで意識を逸らして。それでもやっぱり、考えるのは彼女のことばかりで。  ふと、視界から消えた金糸を追いかけくるりと身体ごと振り向けば、腰を屈め椅子の背に肘を突いたその人の眸とまた鉢合わせる。呼吸が止まる、頭を冷ました意味なんてまったくなかったことに気付くにはそれで十分。 「そのくらい私にも熱中してくれていいのよ」 「…あなたに熱を上げない人の方がおかしいと思いますけど」  なんとかそれだけを取り出して。ついた息が届いてしまっただろうかと気にかける余裕はまだ戻ってはこない。  鮮やかな赤をいとも容易く自分の色にしてしまう彼女に、一体誰が惚れないというんだろう、誰が心を奪われないというんだろう。この世界の誰もが、スクリーンを自分色に染め上げる彼女に恋をしているというのに。もちろんわたしだって。初恋みたいに淡く、ときには苛烈に燃え上がるこの心はたぶん、わたしが演じる少女が抱くそれに似ているのかもしれない。  わたしの返事に、けれど彼女は首を振る、分からずやの生徒をなだめる教師のように。そうして再び伸ばされた指先が、まるでいつもの戯れみたいにあごをさらって持ち上げた。 「私はあなたに想ってほしいのよ、──パトリシア・ルーニー・マーラ?」  悪戯っぽく上がった語尾に、綺麗に形作られた微笑みに。彼女のくちびると同じ色が頬に広がる音がした。 (この心を、色を、あなただって知っているでしょうに、)
 少女の頃からスクリーン越しのあなたに恋をしていたの。  2016.3.23