あなたに出逢えたことが奇跡のようで、
(中の人のお話)
「Happy birthday to me…」
照明を落とした部屋でロウソクの炎がゆらめく。うん、こういうのも悪くない。
口ずさんでいる間に灯した火を前に、息を一つ、ひゅ、と。小さな音を立てて消してしまえば、あるのはただ窓から差し込む月明かりばかり。
誕生日になるといつだってテーブルにはわたしの好きな料理ばかりが並んで、数えきれないほどのプレゼントとお祝いの言葉を貰っていた。家族から有り余るほどの愛情を受けるその行事が煩わしいはずがないけど、それでもやっぱりわたしという人間はこうしてひそやかに祝いを上げる方が性に合っているみたいだ。
さっきからぶるぶる震えっぱなしの携帯電話の電源を落とす。
最近は仕事の関係で実家に帰れないことが増えてきた。そんな時はこうやってひとりでケーキを食べ尽くすか、現場の人たちに祝いを上げてもらうか。そのどちらかのパターンで強烈に記憶に焼き付いているのは、二年前の今日だった。
もちろん映画の撮影ではあったのだけど、初めて彼女と肌を重ねた、あの日。いままでは役柄に自分を投影してこなかったはずなのにあの瞬間だけは、”テレーズ”も”わたし”も、どちらがどちらかわからないほどに焦がれてしまっていた。どうしようもないほど、しあわせを感じていた。だって彼女は、わたしがずっと憧れていた女神様そのものだったのだから。
まぶたを閉じ、完全な暗闇に意識を沈ませる。
肌をくすぐる金髪を、胸を撫でる指先を、呼吸を呑み込むくちびるを。いまだってこうして鮮明に思い出せるんだもの。抑えられないほど、胸が高鳴るんだもの。
去年の誕生日は食事に誘ってもらえたけど、彼女はわたしよりもうんと多忙な人だ、きっと今年は会えないだろう。会いたいですとただ一言伝えてしまえば、やさしい彼女のことだ、予定を調整してでも時間を作ってくれるだろうけど、そこまで甘えることはきっと許されない。だからわたしはこうして、記憶を呼び起こしてしあわせに浸る。
だというのに呼び鈴は、思い出に沈むことさえ許してくれなかった。
さっきからひっきりなしに鳴っているそれを無視しようかとも思ったけど、あんまりにも音が続くものだから仕方なしに腰を上げ、コールボタンを押す。
『ああよかった、起きていたのね!』
スピーカーから聞こえる雑音混じりの声に、耳を疑った。聞き間違えるはずはない、だってその声の主は、
『よければ開けてもらえないかしら、パーティーのお邪魔でなければ』
「は、はいっ、いますぐ」
わたしがまさにいま想いを馳せていたその人なのだから。
急いでマンションのロックを解除すれば、サンキュー、なんて言葉と共に通話が切れる。彼女がここへ昇ってくるのにきっと五分もかからないだろう。どうして彼女がこんな時間にわたしの下へ。集約すればたったそれだけの疑問だけど、そんな短い時間内に答えが出るはずもない。
ただ室内を行ったり来たり繰り返すわたしの耳に、無情にもノックの音が届く。心の準備が整わないままそれでも急かす気持ちに応えて玄関へ、そっと覗き窓から様子を窺ってみれば、見えたのはただ赤一色だった。
深呼吸を一つ、二つ。扉を開けば、さっき映った赤が視界いっぱいに広がる。
「Happy birthday Rooney!」
ひょこり、花束の隙間から顔を覗かせたのはやっぱり、わたしが焦がれてやまない人。
さっきひとりで口ずさんでいた歌にわたしの名前を乗せて、浮かべるのはわたしの大好きな子供みたいな笑顔。口角を思いきり上げて、目尻にしわを寄せて。こんなに間近で見るのは、もしかすると授賞式以来かもしれない、だなんて。まだ一か月ちょっとしか経っていないのに懐かしく思えてしまうのだからきっと、いまのわたしは冷静ではない。
文字通り花束を抱えてきた彼女をとりあえず部屋に通す。
「真っ暗だけれど、もしかして本当に寝ていたの?」
わたしとしたことが、動揺して電気をつけることさえ忘れていたらしい。スイッチに手を伸ばすわたしに、いいのよと暗闇から返事が飛んでくる。この方があなたを感じられるからと。
いつもそう。そうやって彼女はわたしを惑わしてくる。からかっているだけなのだと、単なる言葉遊びなのだといくら言い聞かせてみたって、その言葉の意味を深く追求してしまいたくなる自分がいる。いまあなたはどういう気持ちをこめているんですか――そんな風に。
わたしの気持ちなんてきっとまるで知らない彼女がリビングで足を止め、くるり、振り返って花束を差し出してきた。
「ゼラニウムよ。あなたにぴったりだと思って」
「ありがとう、ございます」
「気に入ってもらえたかしら」
「ええ、すごく。すごく、きれいです」
胸が詰まってありきたりな感想しか言えないわたしに、だけど彼女はよかったと微笑んでくれた。今度は枯らさないでね、と。ウインクとともに悪戯っぽく向けた相手はわたしではなく恐らく”テレーズ”だ。ページに跡がつくまで読み込んだ原作を思い出して、笑みが口元に上ってくる。彼女はいまだって大切にしてくれていた、あの映画を、わたしとの作品を。そんなことがとても、うれしくて。
受け取った花束を慎重にテーブルに置く。花瓶を見つけるのは彼女と別れた後で。
促したソファに腰かけた彼女からほんの少し距離を空けて座ったのに、あら、なんて声を上げたかと思えばすぐにゼロになる。触れ合った腕の温度にどうか彼女が気付いてしまいませんように。
「お祝いの最中だったのね。邪魔しちゃったかしら」
「いいえ、どうせひとりでしたから」
あなたのことを想っていました、なんて言葉はのどの奥へ流し込んで。
「それよりもどうしてここへ、」
「連絡していたんだけど、もしかして見てない?」
電源を切ったままの携帯電話を思い出す。もしかすると電話の一つでもくれていたのかもしれない。申し訳なさに頭を下げても、彼女はやわらかな笑みを向けて、せっかくの誕生日ですものねと。きっと電源を入れていなかったこともなにもかも、お見通しなのかもしれない。いつだって彼女は、わたしを理解してくれているから。たぶん、誰よりも。
なんだか無性にすぐそこにあるであろう手に触れたくて、だけどあと一歩の勇気が出てこなくて、代わりに隣に視線を送る。闇に慣れてきた目が女神の姿を捉えて、自然、鼓動が跳ねた。
「─…どうして、来てくれたんですか」
「あなたへ一番最初に、おめでとうを言いたかったからかしらね」
「でも、忙しいはずなのに、」
「ダーリンが生まれてきてくれた日を祝わなくて一体なにをするっていうのよ」
また、そんな風に。からかっているのかそれとも本音なのか判別しにくい言葉を簡単に放ってしまうのだ、この人は。後者は絶対にないとわかっているのにそれでも信じてしまうのだから本当、単純もいいところ。
見つめてくる透き通った眸に堪えられなくて視線を下げた。
「…言わないでくださいよ、そんなこと。甘えたくなっちゃう」
「甘えてくれていいのに」
「でも、」
「どうやら私、あなたを甘やかすことが好きみたいだから」
そ、と。膝で握りしめていた指が開かれ、絡め取られる。混ざり合っていく体温が脳まで伝わって、まともなことはもうなにも浮かんできそうになかった。
どこまでもやさしい彼女の指をほんの少しだけ、握り返して。息を一つ、はき出したそれは震えていた。
「──ケーキ。ひとりで食べられそうにないから、一緒にどうですか。…ご迷惑で、なければ」
「ええ、もちろんよ」
満足そうに笑った気配の後、身体を思いきり抱きすくめられる。恐る恐る両腕を回せば、耳元に息が触れた。
「お誕生日おめでとう、わたしの天使さん」
視界の端のゼラニウムが月明かりによく映えていた。
(今夜のこともきっと、わたしは忘れないのでしょうね)
この世界に生まれてきてくれてありがとう。
2016.4.17