どうか女神の微笑みを。

 写真の魅力が知りたいだなんて、珍しいこともあるものだ。  大好きな世界を語れることよりも、彼女がわたしに、わたしが好きなものに興味を持ってくれたこと、ただそれだけが嬉しくて。  レンズ越しに見える世界はとても美しいこと。  自身の眸だけでは気付かない些細なものたち、たとえば飛び立つ直前羽を震わせる鳥だとか、たとえば風にひらりと身を翻す葉だとか、たとえば欠伸を噛み殺しながらベンチに腰かけている老人だとか。いつもなら気にも留めず通り過ぎるものが、レンズを覗き込みピントを合わせるだけでひどく鮮明に映る、その瞬間が、わたしは好き。たしかにその場に息づいているものたちの一瞬を切り取らせてもらう、刹那、わたしも彼や彼女たちと同様にここに存在しているのだと実感できるようで。  そうしてなにより、ピントを合わせた先にあなたがいるとき。  スカーフを巻き直す指先を、ゆるやかな曲線を描いたくちびるを、まっすぐこちらを見つめる色のこもった眸を。自分自身の手で残せる喜びに、ともすれば呼吸さえ忘れてしまいそうになる。震える指でシャッターを切る、彼女がこの視線の先にいたのだという証を刻むため。  その部分についてはわたしだけの秘密にしようと、胸の奥底で大切に保管しているけど。  ふいに軽やかな笑い声が響く、とても楽しそうに。 「あなたね、好きなものについて話す時いつも早口になるの、知っているかしら」  ほらあの時も、だなんて。これまた口元を綻ばせながら付け加えたのはきっと出逢ったときの話。くるくると同じ場所を回る電車について説明したときも、いま思い返せば早口だったかもしれない。たぶんこれは癖なのだ、わかっていながらもなかなか治せないのが、この病の厄介なところ。  口をつぐんでくちびるを押し隠す、その手をひたり、掴んだ彼女のそれによって引き剥がされていく。そうして指を絡めたまま、すぐそこにまで迫ったルージュがいいのよと、なにもかもを見透かして言葉を落とす。 「そんなあなたが見たかったから」  ほんのわずか身をよじっただけで鼻先が触れ合いそうな位置から見えた金色がまぶしい。  あるいはわたしの眸がレンズであれば、と。いとおしそうな視線を送る眸を、いまにも愛の言葉を囁きそうなくちびるを、しっかりと絡んで離れない指先を、あまさず残しておけるのに。  シャッターを切る代わりに眸を、閉ざして。 「─…わたしのことを話す時も、そうやって早口になってくれるのかしら」  まるで試すみたいに語尾を上げて向けられたそれはけれど確信を含んではいなかった。あるのは希望と、縋るような想いと。そのすべてに答える言葉をもう、わたしは知っていた。  まぶたを開けば、シャッターを切ったあの瞬間とはまた別の表情が目の前に現れる。少しばかり震える指先が、わななくくちびるが、水面みたいに揺れる眸が。そのすべてを刻み付けて忘れないようにしておきたいとどうしようもないほど願っていることにきっと、彼女は気付いていないから。  眸の雫を拭う代わりに視線を絡めて、言葉を紡ぐ代わりにくちびるを塞いで、シャッターを押す代わりに指先を強く引き寄せて。 「──それならいまから語りましょうか」  ルージュの引かれたくちびるがやがて上がって、また、違う一瞬。 (もちろん一日を費やしても語り尽くせはしないけど)
 Tのすきなものはカメラと写真といとおしい恋人。  2016.4.24