終わりはいつも唐突に。

 わたしが帰宅するよりもずっと前から、彼女は出来上がっていたのだと思う。 「おかえりなさい、テレーズ!」  玄関の扉を開けた途端、待ってましたとばかり抱き寄せられ口づけが落ちてくる、一つ、二つ、数えていたらきりがないくらい。身長差を利用して降ってくるそれらに応えきれず手で制して、それでも彼女は上機嫌なまま。  くっつかれたままリビングに向かいつつ理由を尋ねてみれば、仕事で大口の注文を取りつけ、その成果報酬としてボーナスが出ることになったという。だから今日はその前祝いよと、机にはこれでもかとばかりお酒が並べられていた。そのうち半分はすでに空になっていたけど。  珍しくも頬を上気させたキャロルが口ずさむ歌詞のない歌をBGMに、ベーコンとアスパラガスを塩コショウで炒めただけの簡単な料理を作って並べる。だというのに、わぁおと手を叩いて喜んでくれる彼女に苦笑を一つ。お祝いは今度時間のあるとき、もっと豪勢な料理を振舞うことにしよう。  グラスを合わせ、すっかり空腹なおなかをお酒とごはんで満たしていく。  明日も仕事だからとゆっくりのどを下していくわたしとは対称的に、目の前のキャロルはといえば次々とグラスを空けては注いでを繰り返している。 「ねえキャロル、さすがにもうおしまいにしませんか?」  三つ目のコルクを抜こうとしたところでさすがに制止の声を挟めば、大人しくワインを机に戻したキャロルは不満そうに頬をふくらませた。普段は絶対にしない表情に思わず、もう一本だけですよなんて甘やかしてしまいそうになる口を押さえる。こんなにかわいらしい人がわたしよりも一回りも年上の大人だなんて、いまばかりは信じられそうになかった。  まだ恨みがましい視線を送ってくる彼女を寝室に追い立て、お皿をシンクに運び空のビンたちをまとめる。  そうして寝室へ向かえば案の定、着替えもせずベッドにうつ伏せになった恋人がひとり。 「もう。しわになっちゃいますよ」  ベッドに膝を乗せ顔を覗き込んでみても、さっきまで恨めしさをこめていた眸は閉じられたまま。もう眠ってしまったんだろうか、頬に手を当てても酔いの深さが体温として伝わってくるばかりでまぶたは開かない。  子供みたいなあどけない寝顔に自然、笑みがこぼれていく。お疲れさまですと、労いを小さく落として。  お互いの仕事が忙しくなり、なかなか休日が重ならないことが寂しくないわけではない。だけどそれよりも、彼女が生き生きと働けていることの方がうれしくて。なによりもいま、キャロルは自分らしく過ごせているようで。  かき上げ見えた額に口づけを一つ。 「ご褒美、です」 「──そんなもので足りると思っているのかしら」  ぱちり。ふいに重なった眸が意地悪く笑んだのを見とめたのが先か、それとも視界がぐるりと回ったのが先か。判断するよりも早く腕が引かれ、気付けば背中がやわらかなシーツに包まれていた。  蛍光灯の光が遮られる。馬乗りになっているんだ、と察したのは口づけが降ってきた後。  くちびるが額に触れて、眉間を、鼻のてっぺんを掠め、口の目の前でふと動きを止める。 「頑張ったわたしにはもっと素敵なご褒美が与えられてもいいと思うのだけれど」 「その素敵なご褒美がわたしに用意できるとは思えません」 「あら、簡単よ、」  ゆっくり、ともすれば誘うように、熱のこもった指先がシャツのボタンを一つずつ外していく。片手で器用に半分ほど開けたところで、わたしのものよりも大きな手が忍び込んできて思わず、肩が震えた。 「だってもう目の前にいるんだもの」 「…っ、キャロ、」  名前も酸素も、なにもかもがくちびるに呑み込まれていく。こうなってしまえば、明日も朝が早いから、なんて言い訳が通用しないことは、これまでの経験でわかっていた。そもそも当のわたしだって、自ら腕を回してはもう止められるはずもなくて。  歯列をなぞる舌を夢中で絡め取る。もっと深くに、もっとたくさんと、いつもみたいに顔を覗かせた欲望に忠実に、これ以上近付きようのない距離を詰めていく。彼女のやわらかな髪に指を通して、頭を引き寄せて。  そうして感じた違和感にふと、くちびるを離して、 「キャロル? …ねえ、キャロル」  ちろりと視線を上げてみても、さっきまで色を灯していた眸は見えない。それにわたしの腰に据えられた手も、それ以上動こうとはしていなかった。  浮かんだ予感が確信に変わって肩が落ちていく、もしかして、もしかしなくてもキャロルは、眠ってしまったんだろうか。ここまで人を盛り上げておいて、そんなまさか。  だけれど頬に触れても肩を揺すっても、耳元で名前を呼んでみたって眸はわたしを映さないし、薄く開いたくちびるからは寝息しか聞こえてこないのだから、まさかを受けいれるしかなかった。あれだけ飲んだから、きっと朝まで目覚めることはないだろう。  途端に感じる彼女の体重に、途切れがちの呼吸をこぼす。  今度はわたしが頬をふくらませる番。火照った熱の行き場もなく、一体どうやって寝ろというんだろう。答えは見つかりそうになくて。 「─…ずるい人」  ついた悪態に紛れてくちびるを重ねれば、わたしの気なんて微塵も知らない酔っ払いはかすかに微笑んだ。 (ねえ、なにを怒っているのかしら、テレーズ) (ご自分の胸に聞いてみてください) (二日酔いしか返ってこないのだけれど)
 夜のキャロテレ。  2016.4.25