翼をくださいなんて、なんて過ぎた願い。
揺らいでいるのは世界か、それともわたし自身か。
「ちょ、ちょっと待って待って、止まって!」
「ブレーキ、ブレーキかけてください!」
ブレーキと言われてもどこをどうすれば止まるというのか。車は運転し慣れているけれど、自転車になんて数えるほども乗っていないから操作の仕方なんてとっくに忘却の彼方だ。
ハンドルにばかり向けていた視線を上げれば、すぐ傍を並走しているテレーズが手、手、と。身振りで伝えてくれたおかげでようやくその存在に気付いた。両指を思いきり握り込む、タイヤが急停止、後輪の軽さに驚いて思わず手を離すと、傾いだ身体が地面と相対する直前にふわりと包まれた。
雨を含んだ地面とは違うこのにおいは、もうすっかり嗅ぎ慣れた彼女の香水だった。荒くなった息を整えている身体に鼻を寄せる。やっぱり、いいにおい。
ふと、ため息の気配に顔を上げる。深い紺碧色の眸はやれやれとでも言いたそうにわたしを映していた。
「ナイスキャッチ」
「…これで何回目ですか」
「何度だって受け止めてくれるんでしょ、ダーリン?」
「これが最後です」
ふいと顔を逸らしつつ向けられた言葉はこれで何度目か、数えなくてもきっと、彼女は何度だって口にしてくれるのだろう。
自転車に乗りたいと言い出したのはわたしだった。カメラ片手に公園へ自転車を走らせるテレーズの姿は、翼を手にした天使が自由に飛び回るそれそのものだったから。少しでも近付けたらと、願わずにはいられなかった。
そうして教えを乞うたはいいものの、これがなかなか扱いが難しい。ようやく前へ進めるようになったというのに、ブレーキの場所一つ分からないだなんて。せっかく羽を差し出されたのに結局、背負うことが出来なかったのだ、わたしは。
「やっぱりわたしは──わたしは、あなたにはなれないみたいね」
優しく抱き留めてくれていた腕から逃れて立ち上がる。そうして振り返った先の彼女は陽を浴びて輝いているようにさえ見えた。そ、と。目をすがめる。結局は天使に近付くどころか、直視することさえ出来ないのだから、わたしには。
天使が乗りこなすことの出来ない車で我慢しておこう、そんな考えを見通したのかそうではないのか、意外と強い力で手首を掴まれた。
「キャロルはキャロルですもの」
「…それってどういう、」
意味かどうか問いただすよりも早く、起こした自転車の後部席に促されるまま腰を下ろす。次いでサドルにまたがったテレーズに両手を握られ、腰に腕を回す形に落ち着いた。しっかりしがみついていてくださいね、なんて声がかけられたと同時、わずかに鳴いたタイヤが歩みを進め始めた。
彼女の動きに合わせて軽快に風を切る自転車は、わたしが操っていた時とはまるで別人のよう。羽を与えられたように早く、遠く。スピードを増す、風が吹きすさぶ、わたしの目の前には彼女の背中ばかり。
「あなたは!」
耳を通り過ぎていく風の音に負けないよう、テレーズが声を張り上げる。そんなに叫ばずとも、天使の鈴みたいな声はいつだってわたしの耳に届くというのに。
「わたしに受け止められるあなたでいてください!」
自転車にさえ乗れないわたしでいいのだと、彼女は叫ぶ。そのままのわたしでいいのだと、天使は伝える。天から落ちてくる彼女を受け止めるのはわたしの役目だったはずなのに、いつから逆転してしまったのか。疑問よりもいまは、胸の内に広がるこのぬくもりに頬を綻ばせて。
目の前の背中に額を擦りつける。一体いつから、わたしの前を行くようになったのか。
「─…受け止められるくらいに大きくなってね、わたしの天使」
ランチのメニューさえ決められなかった少女はもう、どこにも見当たらないけれど。
(それでも育ち過ぎた翼がこの腕から逃れてしまわぬようにと、)
Cは自転車に乗れないといい。
2016.3.2