そうしてわたしたちはふりだしに戻る。

 思えば彼女は帰宅したその時からそわそわと、どこか落ち着きがなかった。  いつものように扉の開く音を聞きつけて玄関へ向かい、おかえりなさいと声をかければ、指を擦り合わせ視線も合わさずただいまと。食事の合間もグラスに口をつけたまま、気もそぞろなことがしばしば。一緒にお風呂に入りませんか、なんてかわいらしいお誘いも今夜は聞くこともなく。  そうして背中合わせでベッドに入ってようやく、まともな言葉が投げかけられた。 「あの、…おぼえてます、か」 「なんの話かしら」 「ええと、」  振り向く気配。わたしの背中に指で触れてもじもじと、文字にならないかたちを描く。照れているのか恥ずかしがっているのか、なんにせよ、いますぐ向き合って抱きしめてしまいたい衝動を堪える。  背骨のくぼみでぴたりと止まった指が、そうしてゆるり、窺うように下を目指して。 「その…、だから…」 「ねえテレーズ、はっきり言ってくれないとわからないわ」  このまま寝てしまいそうよ、と。少々意地の悪い言葉を付け加えれば、わたしの策略にも気付かない素直な天使は慌てたようにすみませんと謝罪を一つ、ええと、と言い淀みながらもけれど、ひたり、背中に身体を重ねてきて。  体温が伝わってくる、まるでとけてしまいそうなほどに。朝に鎮火したと思っていたそれがまた、くすぶり出す。 「朝。─…おあずけ、って、」  言い終わるまで我慢できるはずがなかった。いいえ、彼女が確信の一言を吐くまで我慢したのだ、もう心の赴くままにしてもいいはずよ。  自分に言い訳するよりも先にくるりと振り返り、そのままの勢いで体勢を入れ替える。見下ろした景色にどこかデジャヴを覚えるも、それが一体いつ見た景色だったか。もっとも彼女とはもう何度もこうして夜を過ごしているわけだから、当てはまる機会はたくさんあるけれど。  またたきを一つ、ようやく状況を理解したテレーズは音が立ちそうなほど頬を朱に染め、あわあわと口を開く。 「あっ、あのっ、おあずけしたのはわたしの方でっ、」 「そうね、だからお利口に夜まで待っていたわよ」 「そうじゃなくて、だからええと、するのはわたしの方じゃ、」 「随分と生意気な飼い主ね」  むき出しの首筋にやわく歯を立てる、途端、わかりやすく震えた肌はきっと、痛みとは別のものを感じているはず。ちう、ときつめに吸えば、音にならない声が洩れて。そうして出来上がった紅は、かわいらしいパジャマとは酷く不釣り合いに見えた。  こうして痕をつけ始めた頃は加減がわからず、勢い余って歯型までおまけしていたものだけれど、随分と手馴れたものだと、なんだか嬉しくなる。その嬉しさに任せて一つ、もう一つ。散らしていくたび、律儀に反応を返してくれる。  パジャマのボタンを外し現れた小ぶりの頂点にはあえて触れず、そのわずか上に口づけ。くるりと舌で一周して、それからようやく先に触れれば、ひう、と。怯えにも似た声色はけれどそれ以上の、もっと欲めいたものを含んでいた。  見た目はまるで赤ん坊が空腹を満たすそれのように、だけど母性とは違う感情を掻き立てようと、やさしく吸い上げて。もう片方の頂きを抓み上げれば、浮いた腰がわなないた。 「っ、キャロル、…もう、やぁ…」 「どうして? いままでおあずけを喰らっていてようやく、あなたに触れられるのに」 「だって、んぅっ、…わたしだって待ってた、のに」  息を拾い集めながらこぼされた言葉に首を傾げれば、半ば潤んだ眸で語られたのは昨夜の、わたしが覚えていない話。曰く、散々盛り上げられておいて放置されたのだと。だから今夜は思う存分わたしに触れようと──要は自分の好きなように触ろうと思っていたのだと。だから今朝あんなにもふて腐れていたのか、珍しく朝から誘ってくれたのかと、ようやく合点がいく。それはかわいそうなことをした。  ともすれば涙さえ流しそうな勢いのテレーズの頬に触れ、目尻に口づけを一つ、ごめんなさいね、と。途端、ぱあと顔を輝かせた彼女に、けれどきっと想像とは真逆の言葉を送った。 「でももう、止まれそうにないの」  言葉の合間に滑り落としていた片手に恐らく気付いていなかったのだろう、彼女が意味を理解する前に、下着ごとズボンを下ろして、残りは行儀悪くも足で蹴りのけた。とっくにボタンを外し終えていたパジャマをはだけさせる。  もう随分と彼女を羞恥に染め上げていた紅が、とうとう首にまで進出してしまった。  あ、あ、と。勢いについていけないのか文章を成さない声を上げるテレーズににこり、微笑んでみせる。その間にも身体で足の隙間に割り込み、閉じさせないようにした。 「あ、あの、わたしの言ったこと聞いて、」 「聞いていたわよ、ちゃんと。つまり触ってほしいってことよね?」 「ちが、あっ、」  違うことくらいわかっている、でもだからといって、この手を引けるはずも、そのつもりもなかったから。  謝罪は心の中に留めて。指を忍び込ませれば、くちゅり、ねばりを孕んだ水音が響く。わたしにだって聞こえたのだから、本人の耳には身体を通してよく伝わったことだろう、ついには肩まで染めた彼女は顔を覆ってそっぽを向いてしまう。  果たしてそれがいつまで続くのか。すぐに崩せる自信しかないけれど。だって彼女の身体をもう、誰よりも知り尽くしているはずだから。  持ち上げた左の腿に口づけを落とす、ただそれだけのことに、押さえているはずのくちびるから声をこぼす彼女のなんといとおしいこと。  中指をゆるり、潜り込ませる。奥へと進めるたび、テレーズのまっしろなのどが反った。花芯を親指でやわりと潰せば息が洩れて、中に沈ませた指をわずかに折り曲げれば背中が弧を描いて。 「キャロル、…キャロル、っ、」  ほら、やっぱり簡単だった。  顔から離れた手が伸びてくる。上体を近付ければ首に両腕が回って、ぎゅ、と。折れてしまいそうなほど力をこめて縋り付いてきた。二本に増やした指で入口近くを掠めれば、ひ、とのどが鳴って。  こわい、こわいの、キャロル。  テレーズはよく、こわいと口走る。その気持ちはどことなくわかる気がした。昇りつめていく感覚は、どこか遠くへ行くような心細さも伴っているから。空いた片手で引き寄せる、とうとうゼロになった身体からは彼女とわたし、ふたり分の鼓動しか伝わってこない。 「大丈夫よ、テレーズ、わたしはここにいるわ」  だから、  続きをくちびるにこめて、テレーズのそれに口づける。か細い嬌声をくぐもらせた彼女はそうして、眸をぎゅ、と閉ざし、背中に爪を立てた。  ***  むう、と。頬をふくらませ恨みがましく見つめられるのは想定内。 「…なにかご不満でも?」 「ご不満しかないです」  そう言いながらも大人しくわたしの腕を枕にしてくれているのだから、かわいさもここまでくれば凶器だ。いじいじともう片方の指をつまむ仕草も、子供みたいな言い分も、一旦は落ち着いた欲を掻き立てる材料にしかならない。  指を絡め取り、口元に引き寄せそのままくちびるを落とす。行動の意味を理解したのか、さ、と。去ったばかりの朱が走った。  ためらいながらも、指を握り返される。そうして近付いてきたくちびるがわたしのそれをついばんで、かと思えばにこり、無邪気な笑みを浮かべ。 「──おあずけです」 「………え、」 「おやすみなさい」 「ちょ、ちょっと待ちなさい」  制止にも耳を貸さず、天使の微笑みを貼り付けたまままぶたを閉ざしてしまう。やがて間を置かず聞こえ始めた寝息に、唖然と顔を見つめるしかなかった。  そんな、こんな気持ちにさせておいてあんまりだわ。  昨夜の─日付はとうに変わっているから正確には一昨日の─テレーズと同じ状況に置かれたのは自然か、それとも故意か。どう考えても後者でしかない。  大切に握られたままの左手をけれどほどけるはずもなく。かわいらしい寝顔にただ、心を少しでも冷ますためため息をつくしかなかった。効果は薄いようだけれど。 (そうして眠れぬ夜を明かすのは、今度はわたしの方)
 叛逆のT。  2016.4.26