そうして最初にあなたの名前を音にできるのもわたしひとりなのだと、

 水を張った鍋にたまごを二つ、慎重に並べて火にかける。  ゆでたまごを作るときに、冷蔵庫の上に置きっぱなしにしているタイマーは使わないと決めていた。キャロルのために作ってきたゆでたまごが失敗したことはないし、なにより彼女は、タイマーの設定時間よりも長めにゆでたものの方が好きだったから。  コンロから離れ、カーテンを開き窓を開ける。すっかり春めいてきた陽光が身体いっぱいに降り注いできて思わず伸びをすれば、花のにおいを乗せた風が無造作に束ねた髪をわずかに揺らす。  眼下に見える腕を絡め合った恋人たちはどこを目指しているのか、知る必要もないけど、どうかその先に喜びがありますようにと。見知らぬ誰かに願いをこめるのはそれだけ、わたしの心が浮き足立っているからかもしれない。  まだ起き出してきていない彼女と過ごすはじめての休日に、心が躍らないわけがなかった。正確には、彼女と暮らし始めてはじめての休日、だけど。  なにをして一日を過ごそうかと、昨日からそればかり。彼女の隣に寝転んで普段とは打って変わったあどけない寝顔を眺めながらゆるやかな眠りに沈む、なんていうのが最有力だったけど、こんなに天気がいいから、どこか公園にでも出掛けるのも悪くない。あるいはドライブにでも。  なんにせよ、キャロルと一緒にいられるのならどこでも、いまのこの気持ちが続くような気がしていた。  すでにぽこぽこと沸き立っている鍋の火を止める。きっと今日も、彼女の好きなゆで加減のはず。  タイミングよく焼けたパンをお皿に並べ、淹れたてのコーヒーを注いだマグカップを片手に寝室へと足を運ぶ。  もしかするともう目覚めているかもしれない、なんて思ってもみたけど、扉を開けてみれば、わたしが抜け出したときと変わらない体勢で静かに寝息を立てていた。片腕を伸ばしたままうつ伏せで眠る、彼女の癖。そのしなやかな腕を枕に目を閉じるのが、わたしの癖となりつつあった。  ナイトテーブルにマグカップを置き、ベッドをぐるりと回って縁に腰かける。  閉じられたままの長いまつげを、陽に透ける頬を、シーツに広がる金糸のような髪を。キャロルという人を構成しているすべてが、こんなにもいとおしいだなんて。  そ、と。首にかかった髪を後ろへ流し、そのまま筋を辿って耳の裏に触れる。滑らかなそこをやさしく撫でれば、淡い桃色のくちびるがゆるやかに持ち上げられた。 「早起きなのね、ダーリン」 「なんだか目が冴えてしまって」 「でも、昨日の余韻もなく抜け出されるのは少し寂しいわ」  ぱちり、現れた深緑の眸がいたずらに細められる。その眸がどこか、昨夜の妖しい光を灯したままのように見えて。熱が走った頬に勘付かれたくなくて顔を逸らしたのに、彼女には全部お見通し、伸ばされた手が熱い頬に触れてまた、視線を引き戻された。  目を合わせると余計意識してしまいそうだからできれば別の場所を見ていたいけど、視線を下げたところで無防備にさらけ出された素肌が目に入るだけだろうからと諦めのため息を一つ。 「朝ごはんを作っていたんです」 「あら、ありがとう。ゆでたまごはあるかしら」 「キャロルが好きなかたさですよ、きっと」  だってあなたを想って作りましたから、なんて、口にしなくても伝わっているみたいで。嬉しそうに眉を下げた彼女は、わたしの耳の後ろをゆるりと撫でた。心地良さに目を閉じる。  わずかに光が差し込む世界でふいに、引き寄せられるまま顔を落とせば、くちびるにやわらかな感触。まぶたを開けば、至近距離で出逢ったくちびるが笑みを形作っていた。  この距離にもすっかり慣れたと思っていたのに、あんまりにもやさしく光る眸に視線がさらわれる。起き抜けの姿を見られるのも、おはようのキスができるのも、そしてこんなにもまぶしい眸を向けてもらえるのも、世界でわたしひとりなんだというしあわせに胸が震えた。  息を、一つ。少し首を傾げただけで、くちびるが触れた。 「…コーヒー。冷めちゃいますよ」 「つれないわね」  口では非難しながらもその声は楽しそうに弾んでいて。上体を起こしたキャロルに口づけをもう一度、コーヒーを手渡せば、両手で包み込んだ彼女は光の中で微笑んだ。 「──おはよう、テレーズ」 「─…おはようございます、キャロル」  わたしたちふたりだけの休日はこうして始まった。 (そうしてふたりベッドで過ごすだけの休日になるのはまた別のお話)
 Cのためにゆでたまごつくる原作Tかわいい。  2016.5.3