進むなら、あなたと。

 くちびるに降りたやわらかな感触にふと、まぶたを開く。  いつの間に眠ってしまっていたのだろう、気付けば夜も深みを増していて、目が慣れるのに時間を要した。  またたきを一つ、二つ、ようやくかたちを持ち始めた視界に最初に映ったのは、わたしの胸元にふわりと乗った栗色の髪。それから月夜に透ける白い肌。けれど視線を落としてみれば、彼女のまっさらな胸元には点々と紅色が咲き誇っていて。無我夢中でつけたそれと同じものがきっと、わたしのそこにも散っているのだろう。  求め合った時間が早回しで再生される、もう彼女のように若くないというのに、あんなにもきつく抱きしめて。忘れていたはずの熱が頬に上ってくる。  結局おあずけを喰っていたのはわたしとテレーズ、どちらの方だったのか、そんなことはどうでもよかった。仕事の関係ですれ違っていた日々を埋めるほど触れ合った、その事実さえあればよかったから。  あなたなしでは生きる意味がなさそうだわ、なんて。素直に浮かんだ言葉はわたしらしくなさすぎてきっと、笑われてしまうだろうけれど。  りんごのように色づいたくちびるに触れて、ふと、これは苦笑、自分自身への。  いつから、そう、いつから。わたしはこんなにも貪欲になってしまったのだろう。片手では数えきれないほどの痕を刻んでもらったというのに、両手ですくいきれないほどの愛を受けたというのに、まだ、足りないと。酸素まで呑み込んでしまうほどの口づけで、ただそれだけで、泣いてしまいそうなくらいのしあわせで満たされていたはずなのに。  笑みに彩られたくちびるを指先でなぞる。  もう、焦がれている、だなんて。  じわりと世界が歪む、わたしの身勝手な想いを乗せた雫が眸からこぼれて、ソファへと流れていく。いとおしいのよ、ねえ、あなたの熱い肌を、まっすぐな眸を、やわなくちびるを、わたしに向けてくれる愛を思い出しただけでこんなにも、想いがあふれてしまうくらいに。  いっそ心の突き動かすままに口づけてしまいたい、けれどそれではしあわせそうに眠っている彼女を起こしてしまう。こんな時ばかり、彼女の言う『大人』が邪魔をする。  キャロルばかり余裕そうでずるいです――たびたび不満そうに頬をふくらますけれど、彼女を前にしてどうして余裕なんか持っていられよう。わたしの手を留めさせるのはいつだってわたし自身だというのに。テレーズのような純粋な心ではなくなってしまったわたしそのものなのに。叶うならばもっと指を這わせて、くちびるを奪って、そうして見つめ合って、 「─…キャロル、」  視線が、絡んだ。  澄んだ眸が数時間前の続きみたいにわたしを映して、瞬間、止まった息を呑み込むよりも早く顔を近付けてきた。元々短かった距離がゼロになって、くちびるが奪い去られる、かたちにならない音が洩れて、けれどそれさえも深く、深く、彼女の中へ。  むき出しの肌を、彼女のほっそりとした指がなぞっていく。痕に触れられただけで、一つ、一つ、つけられた時の熱がよみがえってきて。  じわりじわり、目の前の表情さえおぼろになっていく、これはいとおしさで。  まるでわたしの願いが届いたように眸に出逢って、くちびるを重ねて、どうしてしあわせを感じずにいられないだろう。それまで感じていた飢餓にも似たそれは最初からなかったみたいに消え去って、代わりに胸が満たされていく、ともすれば張り裂けてしまいそうに。  息をついた隙に両頬を挟み込んで、鼻を寄せて、もっともっと深くにと距離を詰めて、 「…おなか、すいた」  きゅるるる、だなんて。かわいらしい音を響かせたテレーズはぱたりとわたしの胸に倒れ込んできた。そういえばディナーも、シャワーさえも浴びずこうして肌を重ねたのだった。  食べることさえ忘れてソファに雪崩れ込むなんて、歳若い乙女でもないのに彼女といるといつだってこうだ、と。思わず洩れた笑みが自分に向けられたものと勘違いしたのか、顔を上げたテレーズがむうと頬をふくらませお腹を押さえる。そんな彼女を思いきり抱きしめ、首筋にくちびるを触れさせる。 「少し遅いけれど、ディナーにしましょうか」 「…ワインも飲みたいです」 「ええ、それからお風呂もね」  笑いが止まらない、さっきまで考えていたなにもかもがどうでもよくなってただ、いとおしいと。残ったその感情だけが満ちていく。  ふたりして上体を起こして、赴くままに口づけをもう一度。ついばむだけのそれにようやく、彼女の口元にも笑みが上った。 「ねえテレーズ」 「なあに」  わたしの中の『大人』が顔を隠しているうちにもう一つ。伝えれば、にいと照れ臭そうに笑った彼女は、わたしもですよとくちびるをちょんと触れさせてきた。 (あいしてる、ただ、それだけでよかったの)
 Cはいろいろ不器用だといい。  2016.5.6