たとえばあなたがどこからともなく降ってきて、

(中の人のお話)  電車を乗り継ぎ目的地である店の看板を目にした瞬間、記憶が渦のようの私を包み込んだ。交わした会話を、送った視線を、そうして脚本からそのまま出てきたような天使を。もちろん忘れたことなどない、けれどこんなにも鮮明に浮かび上がってきたのは久しぶりのことだった。  もう二年も前のことなのだと、時の流れの早さに目をみはったのは束の間、誰かの目に留まってしまうのも面倒なので早々に店の扉をくぐった。  店内の変わらない雰囲気に、懐かしさが止まらない。入口で立ち止まり思わず見渡す私の元へ向かってきたウェイターに、待ち合わせをしているのだと告げれば、もうお待ちですと人の良さそうな笑顔で案内された。  十一番テーブル、予想と違わぬ席だ。わざわざこの店を指定してきた彼女がまさか別のテーブルに座るなんて考えられなかったから。  席には二つのドライマティーニ、その一つをじっと見つめていた彼女がやがて、近付いた私に気付いて顔を上げた。  まるで二年前で動きを止めていた時がまた流れ出すような、そんな感覚。腰を下ろして向かい合えば私は『私』でなく『キャロル』という女性に成り代わってしまう、なんて錯覚を覚えて。 「お久しぶりです、ケイト」  少し低めの音が耳をくすぐる。構成するものは同じでも、対面した彼女は『テレーズ』ではなく『ルーニー』その人だった。 「お呼び立てしてすみません」 「いいえ、あなたこそわざわざ時間を作ってくれてありがとう。忙しいんじゃない?」 「あなたほどじゃありません」  首を傾けてはにかんだ拍子に滑り落ちた髪が、淡い照明を反射してきらきら光っている。あの頃に比べて随分と伸びていた、それにまばゆいほどの金色だ。  奇しくも同じ髪色であることに果たして彼女は気付いているのか、尋ねずとも、懐かしい色ですねと細められた眸を見ればわかることだった。  ルーニーから連絡が来るのも久々のことだった。いいえ、現代機器をあまり好まない彼女に電話なりメールなりをするのはいつも私からだったから、彼女発信のものは初めてかもしれない。  彼女らしい簡潔なメール文には、わたしに時間をもらえませんか、と。示された日付は今日。これだけの文面を送信するために、一体どれほどの時間をかけてくれたのか。打ち込んだ文字を削除してはひとしきり悩む姿が容易に想像できて、気付けば二つ返事でイエスと送っていた。  そうして夕食場所として指定されたのがこのステーキハウス。彼女、正しくは彼女演じる『テレーズ』と初めて食事を共にした場所だった。 「本来なら家族と過ごす日に時間をくださって、ありがとうございます」 「恋人と過ごすことだって大事だもの」  そうでしょう、と。語尾を上げて悪戯に微笑んでみせれば、くすくすと笑いを洩らしながらそうですねと。以前はダーリンと呼んだだけで恥ずかしそうに頬を染めていたというのに、この二年間ですっかり慣れてしまったのだろうか。そう思うと少し、寂しくもあって。  差し出したグラスを受け取る、わずかに触れた指にどきりと鼓動が跳ねて。持ち上げた視線が絡む、あの日の続きみたいに、宇宙を思わせる不思議な眸に私が映り込む。 「伝えたいことがありました、あなたに」  グラスから離れた手が捕らえられ、重なって。真剣な色を落とし込むその眸のなんてまっすぐなこと。  ねえ、あなたは知っているかしら、眸にとけるたび、指先一つ触れるたび、柄にもなく胸が震えることを。ひとりで遊び出すあなたの指を掴んで引き寄せていたのは私の方なのに、いつからかあなたの方からも伸ばしてくれるようになって。慣れない感覚に熱が上っていたのは私なのだと、果たしてあなたは気付いていたのかしら。  問いかけは呑み込んで。平静を装って首を傾げる、いつもと同じ風に。 「わたしはずっと、あなたの背中を追いかけてきました。この身長みたいに、届かないものだとわかっていながらそれでも、あなただけを見つめてきました」  持ち得る言葉をかき集めて、丁寧に心を伝えようとしてくれている彼女が。初めて出逢った頃と変わらずひたむきに想ってくれている彼女が。たまらなく、いとおしかった。いとおしさを覚えないはずがなかったのだ、初めから、私は彼女に愛を向けるようにできていたのだから。 「いま私があなたの目の前でこうして話せているのは、紛れもなく、あなたのおかげなんです」  そうして彼女もまた、憧れ以上の感情を向けてくれているのだと。自惚れでもなんでもなく素直に、そう思えてしまって。  指が絡め取られる、いつだったか私がそうしたみたいに。ともすれば鳴り止まない鼓動が合わせた手のひらから伝わってしまうのではないかと。不安は全部、深緑の眸に呑まれた。 「──生まれてきてくれて、ありがとうございます」 「─…私、こそ、」  震える声を叱咤して。『彼女たち』が言葉を交わし合ったこの場所で、今度は私たちが想いを、気持ちを。 「出逢ってくれて、ありがとう」  ともすればどこからか降って現れてくれた彼女と出逢えたしあわせに。その翼でどこへでも飛んでいけるだろうにそれでも私の手を包んで離そうとしてくれない喜びに。  まっすぐな感謝を述べれば、愛らしいえくぼが両の頬に浮かんだ。  そうしてお互いに恥ずかしながらも笑い合い、グラスを手に取った彼女に合わせて自身のそれを掲げる。  ふ、と。時が、巻き戻って。  きっと私たちはこうして何度でも出逢うのだろうと、そんな予感めいたものが一つ。 「わたしの女神さまに、」 「──私の天使に、」  乾杯。重ねたグラスが、あの日と同じ音を響かせた。 (私だけの天使に、)
 我らが女神さまのお誕生日に。  2016.5.14