犬も食わないなんとやら。
彼女がわたしの下にやって来る時は大抵、分かりやすい嫉妬をくすぶらせているか、それとも眉をひそめ深刻な面持ちでいるか、そのどちらかだ。彼女が最も想っている人がいれば歳相応のとびっきりの笑顔を常に浮かべているのだけれど、わたしとふたりきりでそんな表情が上ることはまず、無いに等しい。
わたしとしてはもう少し、彼女との距離を縮めたいのだけれど。だって彼女はわたしの一番の親友の想い人だから。
そんなわたしのひそかな願いも空しく、今日も肩を落としたテレーズが玄関前に立っていた。
深い森を思わせる眸に雫を一杯に溜めた姿をどこかで見た気がして。事情を話そうと口を開くもうまく言葉が出てこない様子の彼女を、そんなところに突っ立ってないで早く入りなさいととりあえず促しリビングのソファに座らせた。
あたたかいコーヒーを入れたマグカップを差し出し、目の前に椅子を据えて腰を下ろす。
両手でマグカップを握り揺れる水面をしばらく見つめていたテレーズは、やがてぽたぽたと、大粒の涙をこぼし始めた。
昔──と呼んでも差し支えないほど前、彼女が強く心を寄せていたわたしの親友が、彼女と距離を置いた時でさえ気丈にも堪えていたというのに、いまこの瞬間こぼしてしまうとはどういうことだろう。それだけわたしにも心を許してくれた証なのだろうか、なんて思う暇もなく、珍しく動揺してしまっていた。
「わたしが…、わたしが、悪いんです、」
「ねえテレーズ、顔を上げて、ちゃんと話してちょうだい」
すぐ隣に腰かけ、肩をそっと引き寄せてみれば、素直に倒れかかってきてくれた。胸元に顔を寄せ、肩を震わせるものの嗚咽は押し殺し、わたしが悪いの、と。
尋ねてみたものの、理由はなんとなくわかっていた。
しばらくひっくひっくと繰り返していたテレーズがやがて顔を持ち上げ、悲しみの色に染まった眸で見つめてくる。
「キャロルが、ね、」
はらり、大きな雫がまた一つ。
「──家出しちゃったんです」
続く言葉はやっぱり予想通りだった。
だって件の彼女は今朝早く、わたしの家を訪ねてきて、そうしていまも階段の影に隠れてこっちを見ているのだもの。
またぼろぼろと泣き始めたテレーズに気付かれないよう廊下に視線を送れば、身を乗り出して窺っているキャロルと目が合い、途端、ばつの悪そうな表情を浮かべる。そんな顔をするくらいなら出てきて慰めてあげなさいよ、と身振りで伝えてみるも、首を横に振った彼女は両手を大きく交差させる。
拒否するなら恨みがましい目でわたしを見ないで、わたしだって成り行きで肩を抱いているだけなんだから。
「テレーズ、ねえ、なにか心当たりはないの?」
視線に堪えかね僅かに身体を離し、顔を覗き込んで尋ねてみる。
心当たりとはもちろん、キャロルがいい歳して家出した理由だ。電話も無しに家に転がり込んできたキャロルはただ、何日か泊めてほしいと言ったきり、アパートに取り残されているであろう彼女のことは一言も話さなかったのだから。
特に詮索もせず過ごしていたけれど、テレーズがわたしの前で涙をこぼすほどの重大な案件なら話は別だ。キャロルとはもちろん心を通じ合わせているけれど、この大人になりたての少女にとっても良き相談相手でいたいから。
ぐしぐしと子供みたいに目尻を擦った少女は、真っ赤に染まった眸を俯かせて首を振る。
「それが、全然。昨日も出勤前にいってきますのキスをしたし、帰ってから思いきり抱きしめたし、シャワーだって一緒に浴びたし、いつも通りだったのに…」
ぽつりぽつりとこぼすわりに内容は大胆だった。
テレーズという人が隠さない主義なのか、それとも最近の子はみんなこう明け透けなのか。この言葉が聞こえていたならきっと、廊下の向こうで息を潜めているその相手は頬をこれでもかというほど染めるのだろうけれど、生憎と小さな呟きは聞こえていないみたいで、ついには扉の影にまで足音を忍ばせやって来ていた。そんなに近いとばれるわよ、なんて突っ込んであげようかしら。
「それが、朝になってみたら、少しの間家を空けます、って書き置きだけあって…」
再び水を溜めた眸を見ていられなくて思わず、頭を胸に引き寄せる。扉の向こうで思いきり顔をしかめた人がいたような気もするけれど、こんな時くらい大目に見てほしい。というより、そもそもの原因である本人が出てこないのだから仕方がなかった。
どうしてこうまっすぐすぎるほど想っている彼女の下を離れるなんてことができるのか、そう問いただしたかった。テレーズと距離を置いたあの三ヶ月で嫌というほど彼女の大切さを、いつの間にか強くなっていた想いの大きさを知ったはずなのに。どうしてわたしはまた、こんなにも心を落とした少女を見つめなければならないのか。
いくら親友といえど、いいえ、親友だからこそ、はっきりと言わなくてはならなかった。
ふいと視線を背後へ向けて、またあの痛々しく傷付いた目をしている親友に口を開きかけて。そうしてはたと、思い至ったことがあった。
「…ねえ、テレーズ。もしかして昨日、キャロルと寝たのかしら」
「…はい。昨日も、一昨日も、その前も」
寝たのか、という言葉にこめた意味に気付いたのだろう、さすがに赤みが差した頬を逸らしながらも、テレーズは首を縦に振った。
その返事にようやく合点がいった。つまり彼女と親友は昨日も一昨日も、そうして恐らくここ最近ずっと、身体を重ねているのだろう。だからこそ今朝方のキャロルは目の下に真っ黒なくまを抱えていたのだろうし、テレーズが駆け込んでくるまで眠りについていたのだろうし。
繋がった答えに息を一つ。
「これは提案なのだけれど。夜はちゃんと寝かせてあげた方がいいわよ」
「…え?」
「あなたと違って、わたしたちはもう、そんなに若々しい体力も回復力も持っていないのよ」
もう寝ましょうよと懇願するキャロルも、もう寝ちゃうんですかと子犬のように見つめるテレーズも、それに胸を撃ち抜かれ結局ほだされてしまう親友も、容易に想像がついた。
もう無理をできる年齢でもないというのに、どうも若い子と付き合うとそういった感覚が鈍ってしまうらしい。わたしも気を付けようと、戒めるのは心の中でだけ。
「で、でも、それでキャロルが帰ってきてくれるかどうか…」
「大丈夫。あなたが帰るころには、何事もなかったみたいに戻っているはずよ」
ちらと振り返ってみれば、扉の向こうに見えていた影はどこにも無くなっていた。目指した場所は一つなのだろうけれど。
わたしの言葉に半信半疑の様子であったテレーズは、けれどしっかりと頷く。アビーの言うことなら、と。向けられた言葉は前より少しだけ近付いた距離の表れだと思いたい。
***
「ありがとうございます、アビー!」
「気を付けて帰るのよ」
玄関扉に背を預け、来た時よりも幾分明るい表情で手を振ってくるテレーズを見送る。本当は送り届けてあげたいところだけれど、そうするとキャロルよりも先に到着してしまうだろうから止めておいた。
そうして駆け足で去っていく少女の背中を見つめつつ、一度も口を触れなかったコーヒーを飲む。
「まったく、世話の焼ける子たちね」
コーヒーはまだ、熱を持っていた。
(けれどなんて微笑ましいのだろう、なんて羨ましいのだろう)
CとTがまぶしいAのおはなし。
2016.6.3