けれどいまのわたしたちは切り取ったわたしたちよりももっとしあわせで、
身体を包み込むつんとしたにおいにも、もうすっかり慣れたものだ。
わたしの小さな写真家さんが現像室として使っている部屋に、気付かれることなく忍び込むことは簡単。だって彼女は、ひとたび作業を始めると、晩ごはんの時間だなんて呼ぶ声も耳に入らなくなってしまうのだから。
あらかじめ外の照明を落としておいたから、洩れる光で察知されることもない。
あるのはただ、酢にも似たにおいと、仄赤く染まった室内と、一心に作業に打ち込んでいる背中と。
ひた、と。はだしの足音が床に吸い込まれていく。一つ、二つ、歩みを重ね、ついにはすぐ後ろにまで迫った。無造作に束ねられたまとめ髪が目の前で揺れる。ともすればわたしの息さえかかるのではという位置にまで近付いているのに、一向に振り向く気配を見せない。
湧き上がるのは小さな嫉妬と悪戯心。
右腕を伸ばし腕の中にかき抱き、彼女が振り返ってしまう前に無防備なうなじに口づけを一つ。
「…っ、もうっ、キャロル!」
「気付いてくれないあなたが悪いのよ」
くるりと、ようやく真正面に現れた頬が朱色に染まっているように見えるのは、なにも照明のせいばかりではない気がする。写真を落としちゃったじゃないですか、と。口調は尖っていながらも、わたしを映した眸はちっとも怒りを含んでいなかった。
やわらかく笑んだテレーズは、ついさっきわたしのくちびるが触れたそこをゆるりとなぞり、かわいらしく頬をふくらませる。
「それで? なんの写真とにらめっこしていたのかしら」
肩越しに覗き込めば、現像液で浸した容器から一枚の写真がはみ出していた。かたちが見て取れるほどの浮き具合を見るに、もう完成も間近なのだろうその写真はけれど、ひどくピントのずれたものだった。
持ったままだったピンセットで慎重に掴み上げたテレーズは、液を落とし切ってからわたしの前にかざしてみせる。
「わたしとあなたが写ってるんですよ。ほら、この前撮ったじゃないですか」
この前、というのはつまり一昨日の晩のこと。
そういえばふたりで写った写真がないわね、なんてわたしの言葉に、じゃあいま撮りましょうと答えたのはテレーズ。三脚もあるだろうにわざわざ私用のカメラを──彼女と出逢ってはじめてのクリスマスにプレゼントしたカメラを持ってきて、腕を目いっぱいに伸ばしてなんとか撮影したものだった。
その体勢があんまりにもおかしかったからか、それともかなりお酒が入っていたからか。とにもかくにも笑いが止まらなかったテレーズが撮った写真は、駆け出しといえどプロとは到底思えないほど。ピントはずれ、おまけに手ぶれしている。
「我ながらすごい出来になってしまいました」
「それはどちらの意味で取ればいいのかしら」
「キャロルはどっちだと思います?」
「わたしは、」
悪戯な笑みに質問で返され、こちらも微笑みを一つ。
だって写真の中の彼女たちは、ピントが合っていなくたってそうとわかるほど笑っていたから。しあわせで仕方がないと言わんばかりにふたり寄り添っていたから。
「──完璧だと思うわ」
「あなたならそう言ってくれると思ってました」
両頬にえくぼを一つずつ、刻み込んだ彼女は大切そうに写真を吊るす。
ソファでうたた寝しているわたしに、楽しそうに自転車を駆る彼女に、そうして仲良く写り込むわたしたちに、と。現像したての写真たちが並ぶそこへ順に視線を移していく。
テレーズが撮った写真に比べ、わたしが撮ったものは並べるほど上手ではなかったけれどそれでも、被写体であるその人はいつも笑ってくれていた。どんな時だって、わたしの好きな表情を浮かべてくれていた。その事実がまた、わたしの指をカメラへと伸ばさせる。
「ねえ、テレーズ」
「なあに」
「これからもっとたくさん、わたしたちを残していきたいわ」
幸福なひとときを、彼女と過ごす一瞬一瞬を。
振り向いた彼女はまたたきを一つ、写真と同じ表情を浮かべる。
「ならもっと、上手になってくださいね」
「あら、いまにあなたを越えてみせるわよ、テレーズ・べリヴェット?」
「それは楽しみです」
ちっとも信じていない生意気な写真家さんに口づけをもう一度、今度はちゃんと、くちびるに。
(いまこの瞬間がなによりもしあわせで)
Cは写真を撮るのがへたくそだといい。
2016.6.7