そうしてここで、あなたとともに朝食を。

 コーヒーの香りに誘われた。 「あ。おはようございます、キャロル」  気配を察したテレーズが視線だけをこちらに送り、ふと、はにかみを乗せる。おはようとわたしが返したのを確認すると、ドリッパーに向き直り再びお湯を注ぎ始めた。  彼女の栗色の髪が、窓から洩れる朝の光に照らされきらきら輝く、まるで天使の輪のようだと、思ったのはこれで何度目か。同じ考えを巡らせてしまうほど、この光景がまだ、信じられなくて。  あるいはいとおしさに任せて抱き付いてしまいたかった。わたしよりも幾分も低いその背にすがりついて、首元に顔を寄せて、馴染みの深い香水を吸い込んで、おはようダーリンと。  伸ばした手を半ばで握りしめる。行き場をなくしたくなくて、前髪をかき上げ行儀悪くもカーペットの上に腰を下ろした。ちょうど彼女の作業も終了したのか、二つのマグカップを手にしたテレーズも同様にその場に座り込む。  お互いに手を伸ばしてようやく届く距離。  はい、と。差し出されたそれを感謝の言葉とともに受け取った。あたたかいそれを両手で包み込み、暖を取る。いくら春めいてきたとはいえ、早朝のリビングはやっぱり寒い。  この部屋にはなにもなかった、机も、椅子も、ベッドでさえも。一握りの願いをこめて、ひとりには広すぎる部屋を借りたものの、ふたり分の家具を揃えられるほどの希望をわたしは持っていなかったから。  彼女のマグカップさえまだ無い始末で、いま視線の先でまっさらな両手に握られているそれは彼女が持参してきたものだった。お揃いのマグカップを買いに行きましょう、だなんて、そんな一言も口にできなくて。 「寒いですね」 「…夏が待ち遠しいわ」  夏。床に座っていても身体が冷えないような季節になるまでに果たして言えるだろうか、一緒に住みましょう、と。  テレーズがオークルームに足を向けてくれたその夜から毎日、この部屋を訪れてくれていた。出勤前にあたたかなコーヒーを、仕事後にはふたりで食事を。そうして終電まで他愛もない会話を続ける。  帰ってしまわないで、一緒に朝を迎えてちょうだい――お揃いのマグカップも買えないわたしが、彼女を引き留める術を持ち合わせているはずもなくて。  いまだってそう、寒さに震える彼女の肩を抱けたらどんなにかと想いを馳せるばかり。  ちちち、と。鳥たちがようやく朝を告げにやってきた。今日は休日だ、きっと鳥だって寝過ごしたに違いない。  テレーズが両足を擦り合わせる。 「予定、とか。入ってますか、キャロル」 「少し、出掛けようかと思っていたの」  そろそろこの殺風景な部屋を埋めなくてはならなかった。  まずなによりもベッド。連日床に毛布を敷いただけのところで眠っているから、そろそろ身体が悲鳴を上げている。それから大きな机を、ソファを。  どうしたって浮かぶのは、ふたり分の家具ばかりだった。  ただ一言、尋ねてみればいいだけの話なのに。もし予定がないのなら一緒に家具を選びましょうよ、そんななんでもない風に。言ってしまえればよかったけれど、なんでもないことであるはずなかったから。  リッツホテルで、出逢ったころより幾分も大人びたテレーズと対面した時口にした返事をまだ、もらっていなかった。それだけで、意気地なくも問い返す勇気を失ってしまっていた。わたしのことを許してくれただけで、傍にいるという意味でないのかもしれない。ずっとこのまま、手の届かない距離なのかもしれない。  コーヒーを一口、苦味が頭を覚醒へと導いていく。彼女の淹れてくれるそれはいつだって、わたしの好みを心得ていて。 「わたし、ね、」  途切れがちな声が向けられる。視線を上げてみれば、彼女はマグカップの水面を見つめたまま。 「ないんです。予定」  躊躇いの中に一体どんな気持ちがこめられているのか。もしかするとわたしの希望そのものなのかもしれない、なんて、なくしたはずの勇気が顔を覗かせる。  マグカップを置き、片手をついてほんの少し、距離を詰める。持ち上げられた深緑の眸はなにを求めているのか、やっぱりわたしにはわかるはずもないけれどそれでも、いま音にしなければいけない気がした。  指を伸ばして、マグカップに添えられた彼女のそれにそっと重ねる。  いつかのあの時と真逆の位置に自然、洩れるのは微笑み。わたしを追いかけていた少女をいつの間にかわたしが追い求めているだなんて。この変化はきっと、喜ばしいものなのだと信じよう。  触れた指は拒絶することもなく、ぬくもりを返してくれた。 「…テレーズ、」 「はい」  そ、と。片手を取って、指を絡める。握りしめたそれに答えるように、彼女の指も恐る恐る、折りこまれていく。  息を、一つ。 「──マグカップ、買いに行きましょうか。お揃いのものを」  きっとこの部屋にはこれから、お揃いのものが増えていくのでしょうね。そんな確信が、彼女の両頬に浮かんだえくぼにこめられている気がした。 (ふたり分の料理を並べる机を、ふたり分の椅子を、ふたり分のマグカップを)
 EDから一週間後くらい。  2016.6.11