いつまで経ってもやっぱりあなたは天使のままで、

 じりりり、と。目覚まし時計とは違うけたたましさが廊下に響き渡る。 「ミス・ベリヴェット! お電話ですよ!」  コンロの火を止めて玄関の扉を開ければ、階下で大家の夫人が受話器を掲げていた。ちらと背後に視線を一度、気配がないのでそのまま声をかけることなく階段を下りる。  礼を告げて受話器を受け取り押し当てると、耳を覆いたくなるほどの喧騒に包まれた。 「もしもし、──ミス・ベリヴェットよ」  テレーズは生憎夢の中よ、と。喉まで上った言葉を呑み込んで代わりにくちびるに乗せた名前に自然、頬が綻んでいく。ミセス・エアドと名乗っていた頃にはあまり感じたことのない喜びがじわじわと波のように広がって、束の間の充足に電話中であることさえも頭から抜けてしまっていた。  まるで少女のようなときめきに疑問を抱くのはやめた、彼女といるといつだってわたしは、年甲斐もなく少女の頃に戻ってしまうのだから。 「ああ、キャロルでしたか!」  がやがやという表現が相応しいほどの声の中でようやくそれだけが聞き取れた。わたしの耳にもようやく現実が帰ってくる。次いでお噂はかねがねと、続けられた言葉は周囲にかき消された。  電話の相手はダニーと名乗った。確かテレーズと同じニューヨーク・タイムズで働いている青年で、彼女の話題にもよく挙げられるから、顔を合わせたことはないけれどよく知っている気になっている。見事わたしの名前を言い当ててみせた彼もきっと同じなのだろう。  わたしのことを果たしてどう噂しているのか。同居人がいるの、だとか、大切な人なの、だとか。彼女のことだ、きっと悪くは言っていないはず。今度尋ねてみようと、浮かんだ微笑みはとりあえず頬にだけ留め、それでと先を促す。 「こんな夜更けに一体どんなご用件かしら」 「失礼。同期で飲んでいるのですが、テレーズも一緒にと思って」 「テレーズなら、」  口を近付けたのだろうか、通りが良くなった誘いに先ほど呑み込んだ言葉を伝えようとするよりも早く、やわらかなぬくもりが背中を包み込んだ。思わず背後を見やれば、頭半分ほど低い位置につむじが一つ。いつの間に下りてきたのだろうか、ソファで横になったまま天使の寝顔を浮かべていたはずのテレーズが靴も履かずに抱き付いてきていた。  いつもの癖で頭を撫でれば、滑らかな髪が指を通り抜けていく。 「─…申し訳ないけれど、テレーズは疲れて眠ってしまっているの」 「そうか、残念です。次の機会にとお伝えください」 「ええ、それじゃあ」  受話器を置き、くるりと腕の中で回転すれば、まだ眠気と戦っているのかまどろんだ眸で見上げてきた。なにが不服なのだろう、色づいた頬をかわいらしくふくらませている。 「どうしたの、おねむさん?」 「…なんで、はなれたんですか」  若干舌足らずな口調でこぼされた文句に苦笑を一つ。  遅くに帰宅したテレーズが望むまま一緒にソファで横になり腕枕をしていたけれど、目覚めた時になにかお腹に入れてあげたいと、眠りに落ちた頃合いを見計らって抜け出していたのだ。きっとそのことに対してなのだろう。  タイムズで働き始めて随分と大人びたと思っていたのだけれどやっぱり、あどけなさは残っているみたい。だからこそ甘やかしたくなるのだけれど。  まだ恨みがましく見上げてきている天使をぎゅ、と抱きしめ返す。いつもより体温が高く感じるのはきっと、夢の世界へ戻ろうとしているから。 「ごめんなさいね、もう離れないから」 「うん」 「さ、いい子だから部屋へ戻りましょう」 「うん」  腰に手を回したまま階段へと促しつつ、ダニーにそっと謝罪を送る。だってこんなにもかわいらしい天使を、他の誰にも見せたくないのですもの。 (天使はわたしの腕の中にだけいたらいいの、だなんて)
 CにTのファミリーネーム言わせたかっただけ。  2016.3.2