とある夏の夜の話、聞かせてあげましょうか?

 第六感、とでも呼ぶのだろうか。とにかく、視覚でも嗅覚でも、もちろん女の勘でもないなにか心の奥深くにあるそれが告げていた、危険だ、と。 「なにを言ってるんですかキャロル、ほら早く!」 「…ああ、もうっ」  いつになく力強く手首を引くテレーズと、それから激しさを増した雨に急き立てられ、明かりの映る方向へと駆け出した。  ***  雨なんてかけらも覗かなさそうな天気だった。  もちろんラジオでも、今日は朝から晩まで快晴の一日でしょう、なんて爽やかに予報していたものだから、じゃあたまには歩いて出かけましょうかとふたりして街に繰り出して。  テレーズはいつもの通り、わたしがプレゼントしたカメラを片手に、わたしはそんな彼女の片手をこっそりと。晴れやかな天気にみんな浮かれているのか、道行く人々は仲良く手をつないだわたしたちなんて気にも留めない。  ショーウィンドウに並ぶ流行のワンピースを眺めて、街中のふとした光景にカメラを構え、おなかが空けば手近なカフェに足を運んで。  そうして影も姿を隠し、さてそろそろ帰路に着こうかと空を見上げたところで、ざあ、と。本当に、突然の雨だった。日中はまぶしいほど澄み渡っていたはずのそこは重苦しい雲が広がり、なにも持たないわたしたちに容赦なく雫を叩き付けてくる。  まだ終電さえ走っていない時間であるはずなのに、道にはタクシーどころかバスの一つ見当たらず。走って帰ろうにも家からあまりにも離れていて。  それから、ふと、その明かりが灯った。ちかちかと、毒々しい緑色がホテルの名前を彩っているものの、雨のせいか点滅しているせいか、文字を判別することはできない。  明らかに怪しい佇まいで、そもそもホテルかどうかさえもわからないというのに、どうやらテレーズは入るつもりのようだった。いつの間にかわたしの手首を掴み、雨宿りしましょうと急かしてくる。けれどどうしたって足が進むはずもなかった。  どこか別の場所を探しましょう、と。口を開いてみたけれど、雨音のせいで彼女の耳には届かなくて。  仕方なくくぐった回転扉の先は、予想していたよりもホテルの様式を成していた。  目に鮮やかな深紅の絨毯に、天井から吊り下がる豪奢なシャンデリアは、あのみすぼらしい外観からは想像もつかない。  けれどもカウンターには誰の姿もなく、ただ一つ、部屋番号の印字された鍵だけがぽつんと置かれていた。 「ねえテレーズ、やっぱり場所を移さない?」 「どうしてですか。外はすごい雨なのに」 「でもスタッフもいないようだし、それになんだか、」 「鍵があるんだからいいじゃないですか」  なんの躊躇いもなく鍵を手にしたテレーズは振り返り、疑問符を浮かべ首を傾げる。わたしと同じだけ雨に濡れたはずなのに、肩に触れた髪はもう乾いているように見えた。  彼女の言う通り、背後ではさっきよりも勢いを増した雨がガラスを叩いている。けれど普段であれば、わたしの意見にもっと耳を傾けてくれるはずなのに。こんな風に感情の読めない眸で見つめてくることなんて、ないのに。  押し留められたまま転がっていってしまった言葉をもう取り出せなくて。上階へと伸びた階段を上り始めたテレーズに続いた。  しっかりとカーテンが引かれた室内は、どんな夜よりも闇が深かった。  電球が切れているのか、ベッド脇のテーブルランプと、それから浴室の明かりしか点かない。テーブルランプを点けてみてももちろん、狭い部屋全体を照らせるはずもなくて。 「ねえテレーズ、照明が壊れているみたいだけれど、」  振り返ってみたものの、そこに求めていた人物はいなくて。まさか忽然と消えてしまったのでは、なんて、普段のわたしなら笑い飛ばしそうな想像でさえ、この薄暗い室内では次から次へと浮かんでくる。  動くこともできないわたしの耳に、小さな衣擦れの音と、やがて水がタイルを打つ音が入り込んでくる。どうやら先にシャワーを浴びているようで、止めていた息を一つ。本当は一緒に入るつもりだったのだけれど、もう水を流しているところへ押し入るだけの気力も勇気もなかった。  窓辺に据えられたソファには近付きたくなくて、かといって行き場もなく、一つだけしかないベッドの縁に腰かける。  そっと、両肩を抱きしめる。この震えは、なにもずぶ濡れになったからではないことくらい、自分が一番わかっていた。身体にぴたりと張り付いた服を着替える気にもならない、だって寒くはないから。ただ、早く、早く、テレーズが出てきてくれないかとそればかり。  どうにもおかしかった。  突然現れた不気味なホテル、不在のフロント、一つだけ用意されていた鍵、明かりの少ない室内。だというのに頼るべき恋人は当然のようにすべてを受け止めてしまうから、まるでわたしだけが間違っているのではないかと。わたしだけが、どこか別の世界に迷い込んでしまったのではないかと。  ばかばかしいと一蹴するにはあまりにも、すべてが狂いすぎている。  がちゃり、と。  背後で響いた音に驚いて振り向いてみれば、バスローブを羽織った彼女が浴室の明かりを背に立っていた。 「どうしたの、」  表情が、見えない。 「キャロル」  どうしてだか逃げ出したい衝動が突き上げてくるのに、身体が言うことを聞いてくれない。  はだしの彼女がゆっくりと距離を縮めてくる。足音が聞こえない。鼓動が耳元でうるさく鳴り響いているせいか、それとも本当に響いていないのか。判断するよりもいまは、早く視線から逃れてしまいたいと。 「怯えてるの?」  ぎしり、身を乗り出した彼女に合わせてベッドが軋み声を上げる。片手が頬に伸びてくる。シャワーを浴びたばかりだというのに、水滴さえ拭っていないわたしよりも冷え切った指先だった。 「なにも心配することなんてないわ」  自由の利かない身体が押し倒され、やがて背中がシーツに縫い止められる。覆い被さってきたその人がわたしの前髪をかき分け、顔を寄せて、 「──あなたは、だれ」  くちびるが重なる寸前。ようやくそれだけの言葉を取り出した。  ふ、と。動きが止まって。 「テレーズ、じゃ、ないわね」 「─…だったらどうだというの?」  そうして、間近に迫った樹海色の眸が、にやり、怪しく笑んだ。  冷たい指先が首筋に落ちる。のどを捉えられて、恐怖に身が竦んだ。  目の前の“それ”はもうテレーズの体を成しているだけで、わたしの知っているテレーズではなかった。だってテレーズはこんな風にいやらしく笑ったりなんてしない。奥の覗けない眸で見つめてくることも、愛のこもっていない手で触れてくることもないのに。  だとしたらどこへ。わたしのよく知るテレーズは一体どこへ行ってしまったのか。もしかすると本当に、わたしだけが別の次元へ入り込んでしまったというのだろうか。  ──ル…、  わからない、なにも、なにもかも。  ぎゅ、と。かたく目を閉じる。悪い夢ならどうか覚めますように、目の前の“それ”がどうかわたしの作り上げた幻覚でありますようにと。  ──ロル…、 「ねえ、」  *** 「──キャロルっ!」  まぶたを、開けた。  耳に飛び込んできたのは聞き慣れた音。それからざあざあと地面を叩く雨。 「どうしたんですか、キャロル、ぼーっとして」  声につられて隣に視線を向けてみれば、心配をありありと表情に乗せて顔を覗き込んでくるテレーズの姿があった。  思わずまじまじと見つめてしまう。髪先から雫を滴らせたテレーズの深緑の眸も、色づいた頬も、わたしに触れた指先のぬくもりも。なにもかも覚えのあるものと合致して、安堵の息を一つ。  ああ、そうだ、突然の雨にとりあえず、近くの軒先で雨宿りをしていたのだった。 「ごめんなさい、なんだかわたし、夢を見ていたみたいで」 「立ったまま寝ちゃってたんですか?」  くすくす声を洩らすテレーズに、昨日あなたが寝かせてくれなかったからかしら、だなんて軽口まで出るくらいにはもう、恐怖は薄れていた。  そうよ、夢を見ていただけなんだわ。あまり眠っていないからだとか、一日歩き通しだったからだとか、きっとそのせいなのよ。自分自身に言い聞かせ、早く悪夢を追い払ってしまうことにした。 「ところで、」  ふ、と。見上げてきた眸が色を落としたように見えたのは気のせいか。 「ここ、ホテルみたいですけど。ちょっと休んでいきませんか?」 「─…え、」  急いで仰いでみれば、あの緑色の電飾が生々しく光を放っていた。  恐る恐る、視線を、下げる。一心に見つめてくる“彼女”が、首を傾げて。 「──キャロル?」  緑が、色を増した気が、した。 (それからどうなったか、ですって? それはあなたの想像する通りよ)
 信じるか信じないかはあなた次第。  2016.7.2