二度は言いません。

「…そろそろ戻りましょう、風邪を引いてしまうわ」  星が落ち終えてしまう前に無情にも、現実が帰ってきた。離れてほしくなくて指を握りしめていたのに、いつの間にかするり、抜け出してしまっていて。  振り返った途端、部屋が灯る、まぶしいほどに。この明るさで、星なんてどこにも見えなくなってしまった。  さっきまで飲んでいたコーヒーのカップが片付けられていく。キャロルは背中を向けたまま。  時計なんて探さなくても、もうすぐ帰らなければならない時間だということくらいわかっている。けれども今夜は、まだ、扉を開けたくなかった。  気付いているのだろうか、彼女は。ここに足を運ぶたびに一つずつ、新しいものを置いて帰ることに。いや、気付かないはずがない。ソファに並んだクッションも、棚の上のカメラも、いま洗っているマグカップだって。少しずつこの部屋に『わたし』を残して、いつだってわたしを感じてくれるようにと。  卑怯な手だということも、臆病になり過ぎていることも、十分すぎるくらい自覚している。 「キャロル、」  一緒に住んでもいいですか、なんて。たった一言が切り出せなくて。 「なあに、ダーリン」  視線は上がらない。もうとっくに洗い終えてもいい頃なのに、水音はまだ消えてくれない。  部屋に踏み入る。夜に慣れた目に、明かりはまぶしすぎた。  息を、一つ。 「──今夜は、帰りたくありません」  口から取り出した言葉が、二人の間に転がっていく。  ようやく持ち上がった眸がわたしを捉える、かすかな驚きをその視線にこめて。静寂を裂くのは、いまだに止められない水の流ればかり。 「…ごめんなさい、よく聞こえなくて。もう一度、」 「キャロル」  まっすぐに名前を呼べばそれだけで、音を見失ってしまう。  わたしはもう告げた。もっと彼女と過ごしたいのだと、もっと彼女の隣にいたいのだと。聞き流すのか、それとも受け止めてくれるのかは彼女次第。だけどどうか、受け入れてくれますようにと。夜空を切る星に託した願いがどうか叶えられますようにと。  もう離れてしまいたくなかった。できることならずっと指をつないでいたかった。だけどそれ以上に、彼女をひとりにしたくはなかった。嬉しいときも、悲しいときも、いつだって彼女の隣にいたいから。  わたしのわがままでしかないそれをどうか、彼女も抱いてくれていますようにと。これは願えなかったけど。 「…もう、こんな時間ね」  わたしをとかしこむのは、ずっと焦がれている眸。 「─…今夜はここにいて、テレーズ」  水音が、止まった。 (わたしはずっとを願いました、あなたは、)
 あと二日。勇気を出したT。  2016.8.24