叶うならばあと一つだけ、

 ここにいて、と。知らず、音にしてしまった言葉を撤回できるはずもなく。 「もし寝づらいようなら、このクッションを枕代わりにしてちょうだい」  ベッドを整え、テレーズがいつも抱えているクッションを枕元に添える。  このクッションはいつだったか、彼女が持参してきたものだった。これが一番フィットするんです、だなんて、まるでにおいを染み込ませでもするみたいにぎゅ、とつぶして。わたしひとりきりの時に、所在無い腕が気付けばやわらかなこれを求めていることをきっと、彼女は知らない。  ベッドの縁に腰かけたテレーズが、引き寄せた枕に顔をうずめる。 「…キャロルのにおいが、します」  鼓動が一つ、不規則に跳ねる。  一体いつから、彼女に触れていないだろう。一体いつから、彼女を抱きしめていないのだろうか。  彼女はいつもなんの躊躇いもなく手を伸ばしてくる、さっきだって、頑なに避け続けるわたしの指をいとも簡単にさらっていって。  けれどそれでも、自ら触れることはできなかった。一度は彼女を突き放してしまったわたしがまた求めるだなんて、なんて都合がいいのだろうかと。拒絶されてしまうのではないだろうかと。心優しい彼女がそんなことするはずがないという事実もまた、胸を締め付ける。 「…わたしは向こうで寝るわ。おやすみなさい」  身勝手にも伸びていきそうになる指を、押し留めた。  踵を返しリビングに向かおうとしたところへ、ふ、と。ああ、また。  覚えのあるぬくもりに首を巡らせてみれば、逃れきれなかった指先がしっかりと捕らえられていた。ひどくまっすぐな眸が見上げてくる。深緑の眸が映すのはいつだってありのままのわたしでしかなくて。とかしこまれたわたしはどこまでも揺れていて。 「まだ、もらっていません」 「なにを、」 「おやすみのキスを」  響きは幼子のそれのはずなのに、意味するところはまったく別のもの。  一層握られた指は、明確な答えを求めていた。イエスか、ノーか。拒絶するのか、受け入れるのか。  離れていたいわけではない。ただ、わからないだけだった。彼女が隣にいなかった間に、距離を、視線を、ぬくもりを、忘れてしまっていただけだった。だからこそもう一度知ってしまうのがこわい。覚えてしまえばもう、離したくなくなってしまうから。彼女がなんと言おうと隣にいてほしくなるから、できることならずっと。 「キャロル、」  続きの言葉が飛び出すよりも前にくちびるを落とす。触れた額は、まるで風邪でも引いているみたいに熱を持っていた。  触れ合いはほんの一瞬。  離れてすぐ、自身の額を空いた片手で押さえたテレーズは、しばらく呆気に取られていたかと思うと突然、ゆるり、微笑む、無邪気な子供のように。額だけに留まったことを咎めもせず、ただ純粋に喜んでいる様に、息が苦しくなる。 「…ねえ、テレーズ。お願いがあるのだけれど、」  やっぱり、触れるべきではなかった。だってこんなにも抑えられない。想いがあふれて止まらない。  見上げてくる頬を包み込んで、口づけをもう一度、今度はおやすみ以外の意味をこめて。 「──ソファは冷えるの」 (どうかこの声の震えを感じ取ってしまいませんようにと、)
 あと一日。距離を忘れてしまったT。  2016.8.25