Happy holiday.

 名前を、口にしたわけではなかった。 「なあに、テレーズ」  振り返ったキャロルの髪がふわりと浮かぶ。朝陽に照らされたそれがまばゆいばかりにきらめいて一瞬、わたしの目をくらませる。またたいているうちに表情を微笑みに変えていた彼女は、シンクの縁に両手を突きひたと見据えてきた。どう声をかけようか、なんて言葉を続けようか、まだ考えあぐねていたものだから、その緑の眸に見つめられてもなにも言いだせるはずもなく。  あの、と。それだけを音にしてまた、口をつぐむ。  彼女は待つ、じ、と。火にかけたままのやかんがぽこぽこ音を立てる。 「あの、」  もう一度。紡げば、彼女がやわらかく首を傾げる。 「─…お化粧。して、もらえませんか。あの日みたいに」  *** 「すみません、時間ないのに」 「いいのよ。今朝は随分と早く目が覚めてしまったし」  目を開けて、と。離れていく体温をもう、肌が恋しがっていた。さっき放った言葉とは裏腹に、この時間がもっと続けばいいのにと願っていたのだけれど、どうやら届いてはくれなかったみたいだ。  ゆるり、まぶたを開いて。思っていたよりも間近にあった深緑の眸に鼓動が跳ねる。 「完璧。どこかの誰かとデートでもするのかしら」 「少し出掛けるだけです」  嘘、だった。お散歩日和ではあるけれど、久々の休日だからかわたしの身体は休息を欲していたから。  ただ少し、キャロルの時間をもらえたらと。  彼女の仕事は繁忙期で、わたしもようやく大きな紙面を扱わせてもらえるようになったせいか、ふたりでゆっくり過ごす時間が圧倒的に減っていた。休日は重ならないし、会社に泊まり込むことも頻繁にあるから、それも当然と言えば当然なのだけれど。  そうして今日も、わたしは三ヶ月ぶりの連休、彼女は出勤。せめてどうにか触れ合いたくて、お化粧をと頼んではみたものの、どこへ出掛けるでもなくひとりきりでめかし込んでも空しいだけだった。  もうすぐ家を出なければならない時間だというのに香水を取り出したキャロルは、仕上げだとばかりに微笑む。  わたしの指を取って引き寄せ、手首に一滴。彼女自身の手の首でやさしく広げられていく。指先から、手首から、少しひんやりとした彼女の体温がつたってきて。  手首が離れても、けれど指先が解放されることはなく。ぐいと引っ張られた勢いで身体が倒れ、気付けば彼女の胸の内に抱き留められていた。  いままさに手首から香っているにおいが目の前いっぱいに広がっている。近すぎる香りに、ばくばくと、耳元でうるさく鳴り響く。  す、と。手が耳の裏に回り込み、ゆるりと、撫でていく、一度、二度、三度。ともすれば打ち鳴らされている鼓動が伝わってしまうのではと身を固めてしまうほどに。 「テレーズ、」  名前が、響く、すべての音を打ち消して。  促されるがままに視線を上げれば、にんまりと、どこか満足そうな深緑と鉢合わせて、また、心臓は落ち着きをなくす。 「明日。有給、取るわね」 「…キャロル、それって、」 「だからお利口にしてるのよ、ダーリン」  わたしの言葉を遮り前髪をかき分けた額にくちびるを落としたキャロルは、そうしてするりと立ち上がりあっという間に玄関に向かってしまった。呆然と見つめるわたしを最後に振り返り、いってきますと手を振るものだから、いってらっしゃいと反射的に返して。  ばたん、と。閉められた扉にようやく、頬が熱を思い出した。  分かっていたのだ、彼女は、わたしがお化粧を求めた理由もなにもかも。  ひとり取り残されたわたしはただ、きっと真っ赤に染まっているであろう頬を押さえることしかできなくて。 「…お買い物、いこ」  新しい服を買って、それから彼女に似合う花束も選んで。  明日を、最高の休日にするために。 (はやく、はやくかえってきてね)
 いつまで経ってもお互いがだいすきなふたり。  2016.11.16