あなたばっかりずるいと思うんです、だから、
熱い水が勢いよく身体を濡らし、思わずほうと息を一つ。ついさっき同居人が使ったばかりのシャワーは、外気に震える肌をすぐにあたためてくれた。
髪を後ろへ流し、顔いっぱいに湯を浴びて。
──さて、どうやって体勢を入れ替えよう
帰宅してからというもの、わたしの思考はそればかり。もっと言うなら昨晩から。どうすればあの深緑の眸を見下ろすことができるのかと。
わたしのすべてを見透かしてくるあの眸が浮かぶ。じゅんと、背筋を走り抜けた熱はきっと、シャワーのせいではない。
紅を落としたばかりのくちびるに触れる。彼女はまず、こうしてくちびるに──
***
──まずくちびるに人差し指をあてがう、まるで子供を黙らせるように。指を視線で辿って、まっさらな腕へ、浮き出た鎖骨へ、薄く染まった頬へ、そうしてわたしを映す眸へ。
細められたそれがそうせがんでいる気がしたから、恐る恐る舌を覗かせ指を一舐め。甘く感じてしまうのを、いつも不思議に思う。指の腹を口に含んで、舌で軽く吸って。そうすればキャロルはいい子ねとでも言うように空いた片手で撫でてくれるから。子供扱いされているみたいで不満だけれど、撫でられてしまえば鈍い痺れが地肌から背中を伝って尾骨を刺激していくものだから、やめてくださいと振り払うこともできない。
そうして一通り指を濡らせば、くちびるから離れ、彼女自身の口元へ。わたしがそうしたように舌を伸ばし、舐め取って。その間も逸らされない眸に射抜かれたまま、身じろぐこともできずに見つめるばかり。
「ねえ、」
ちゅ、と。リップ音を立てた後、人差し指がまた伸びてくる。熱を持ち過ぎた頬へ、乱れた呼吸のせいで上下する鎖骨へ、期待に震える腕へと。それはまるで、さっきわたしが彼女に宛てた視線をそのまま辿っているようで。
「あなたは、どうされたいのかしら?」
ああもう、ぜんぶ知っているくせに。わたしがどうされたいか、なんて。煩わしい寝間着を今すぐ取り去って、妖しく持ち上がったくちびるで熱を持った箇所にすべて触れて、痕を残して──昨日だってその前だって、そうしてきたくせに今更、わたしの口から発さないと満足に口づけさえくれなくて。
指先がなぞる肌には、もどかしさばかりが残される。鋭利な刃物で傷をつけられていくみたいに、触れた先からじゅくじゅくと熱を孕んでいく。ふれてほしい、早く、はやく、甘いくちびるでわたしのなにもかもを暴いて奪ってぐちゃぐちゃにして、
「…くだ、さい、」
「なにを?」
ああ、本当に、いじわるな人。
「あなたを、ください」
「──いい子ね、テレーズ」
やわらかく笑んだくちびるはそうしてわたしの、
***
「──じゃなくって!」
思わず叫んでしまって、慌てて口を押さえた。相変わらず肌に打ち付けるシャワーの音がきっとかき消してくれたんだろうけれど、心臓はばくばくと激しく鳴っている。昨夜の秘め事を思い出して熱をくすぶらせているだなんてまるで、まるで、欲求不満みたいなこと。
ああでも、不満といえば、最近わたしばかりが組み敷かれていること。いつも見下ろされ暴かれていくのはわたしの方で、ちっとも彼女に痕を残せてはいない。触れられるのはうれしい、うれしいけれどもわたしだって、キャロルのいろんなところに口づけたいのに。
だからこそ今日は、今夜こそは、わたしから。キャロルの腕を引いて、シーツに沈めて、あの深い緑の眸にわたしをとかしこんで、あなたはどうされたいんですか、って。
「よしっ」
イメージトレーニングは何度もしてきた、きっとうまくいく。
シャワーを止め、髪を拭うのもそこそこに脱衣所から抜け出す。明かりが落とされたリビングはしんと静まり返っている。たぶん彼女はいつもの通り、ベッドに腰かけお酒をあおっているのだろう。そのグラスを奪ったときから、わたしの下剋上は始まるのだ。
光に透けるあの髪がシーツに広がる様子はきっとどんなものよりきれいなんだろうなと、そんな想像を早く現実にしたくて寝室を覗いて。
思った通りキャロルはいた、ただし、ベッドに身体を横たえて。
グラスも酒瓶も、サイドテーブルには置かれていない。お酒も飲まずに待っていてくれたのだろうかと、抜き足差し足忍び足、ひょこりと顔を覗き込んで。
目的の眸はぴったりと閉ざされていた。緑色はどこにも見えない。
「…キャロル?」
返事の代わりに規則正しい寝息。かわいい、すごくかわいい。普段の妖艶な夜の雰囲気が、眸を隠した途端どこかへ去って、小さな子供みたいな表情を浮かべてしまうのだから、目を奪われてしまわないはずがない。
しばし見惚れて、けれどようやくこの状況に頭が追い付いてきた。
「……キャロルさん?」
キャロルは眠っていた、それはもうぐっすりと。
当然といえば当然のこと。だって最近は夜更かしばかりで、彼女がお風呂場から出てきたときだって欠伸を噛み殺していて。だからいま彼女が夢の世界を飛び回っていることも仕方がないわけで。
「………キャロルぅ…」
もう立っているのも億劫で、彼女の隣にぼすんと倒れ込む。わりと大きくスプリングが軋み声を上げたけれど、目の前の眸が現れる気配はなくて。
なんだかわたしだけ張り切っていたみたいで、本当、ばかみたい。そんな自嘲が湧き上がるものの、どこかうれしそうな寝顔を前にしたらなんだかどうでもよくなってしまった。
明日こそ。明日こそ、覚悟していてくださいね。
恨みつらみをこめて口づけを一つ。今晩は、これで勘弁してあげます。
(そうして明日も見下ろされるのは、また別のお話)
下剋上はいつまで経っても達成されないといい。
2017.2.6