あなたとわたしのはじまりを。

「随分と伸びたわね」  上質な革手袋が首を掠めて思わず息が洩れた。  気取られないよう指先から腕、そうして顔へと視線を流す。久しぶりにまみえた深緑色の眸は肩をすべるわたしの髪に興味を引かれているようで、わたしの目線の行方になんてこれっぽっちも気付いていない。 「あれから何年経ったと思ってるんですか、…ケイト」  この音を取り出すのも久しぶりのこと。何度も、そう何度だって転がしてきた、だけど本人に届けるには心の準備が必要なほど年数が積み上がってしまった。声の震えを寒さのせいにしても許されるだろうか。  当のそのひとはわたしの心中にまったく勘付いた様子もなく、飽きもせず髪先を撫でて、すべらせて。 「いつでも会いにきてって言ってたじゃないの、ダーリン」 「会う暇もないほど忙しかったのはだれですか」 「あなたこそ」  そこでようやく視線が向けられる。いたずらっぽく細められた深緑色にとらえられて瞬間、呼吸が止まった。  雪の降りしきるあの日に時間が巻き戻る。風に首筋を遊ばれていたあのころ。目に鮮やかなコートを美しくまとっていたあのひと。わたしをいとおしく見つめるあの眸。肌を撫でるあの体温。わたしに与えられた名前を落とすあの声。身体をすべったあの毛先。夜の帳とともに降ってきたあのくちびる。覚えている、ぜんぶぜんぶ、数時間前のことみたいに、こんなにも。  熱を持った身体を見透かしたように、目の前の口角が弧をえがく。心拍数が上がる、ああ、気付かれてしまった。 「なにを思い出してるのかしら、」  髪をすくわれる、口元に運ばれたそれに落ちるくちづけ、つたわるはずのない熱が全身に走る、思わず自身のコートの裾をぎゅうと握りしめて、ああこれは、この赤はあのひとの、いつかのあのひとからいつかのわたしへと継承された色。 「──テレーズ・ベリヴェット?」  ああこのひとも、あの日々を忘れていなかったのだと。わたしだけではなかったのだと。  あのひとと仮初の愛を語らったあの日々にだけ許されていた呼称を口にしようとくちびるを開いたその瞬間、テスト撮影終了を告げるスタッフの声が、わたしを現実へと引き戻す。  またたきひとつの間に離れる深緑色。肌を震わす外気が熱を散らしていく。知らず落胆する心を抑え、深呼吸。いつも通り、そう、これで元通り。だってあれはもう遠い過去の話だから。  だというのに未練がましいわたしはその過去に一瞬だけでも縋りたくて。ぐ、と。一度引き結んだくちびるをほどいて、キャロル、と。 「なあに、ダーリン」  やわらかな微笑みはあのころのまま。わたしを変えた女神はまるであのころの続きみたいに手を差し伸べた。 (その手を取ればまた、)
 あのころのわたしたちを。  2020.2.2