狂わされていく、なにもかも。
母親とは常に理性的でなければならない。子供を守るため、家を存続させるため、名を汚さないために。なにより私自身を保つために、私はこれまで―二人の娘がどう育つかは別として―良き妻、良き母として努めてきた、そのはずだった。
「エラ、」
震えないように語気を強めることが私の精一杯の意地。
随分と離れていたはずなのに耳聡くも振り返ったその娘は、憎らしいほど透き通った琥珀色の視線を投げかけてきた。朝から晩まで仕事をこなしているあの時も、侮蔑されているその時も、いつだって真っ直ぐな眸は今日も私を映し、理性を揺らしていく。
そうしてとけた後に顔を出したのは驚くほど本能的なそれ。きらい、にくい、きえて。子供のような感情を、私は知らない。常に完璧であろうとした私が、美と富を身に着けていようとした私が知っているわけがない、こんな不完全な感情を。
「お呼びでしょうか、お母様」
立て直そうとした仮面は灰かぶりの一言でいとも簡単に崩れていく。
その言葉は、呼び名は、別の誰かに向けられているはずなのに、別の誰かのものであるはずなのに。私の知らないその女の影を背負わそうというのか、この娘は。私がどう振る舞っても成り得ることが出来なかったその“母”を。
「前に呼び方を教えたはずよ」
「…すみませんでした」
「物覚えの悪い子はきらいなの」
早く追い払ってしまおうと仕事を与えようとしたのに、顔を上げた途端ぶつかった琥珀色に言葉が呑み込まれていく、ああ、また、この感情。
「物覚えがよければ、すきになっていただけますか」
理性が、奪われていく。築いてきたなにもかもが壊されていく音が確かに聴こえる。なにかを返そうと口を開いたのに投げるべき言葉も、のども、全てが呑み込まれたままで。琥珀色は揺れない、いまの私をそのままとかし込んで。
この娘は一体何と言ったのか、すきになる、などと。なれるはずもないのに、いま押し寄せてくるものの正体さえ分からない私がこれ以上の感情を向けることも出来ないというのに。
「灰かぶりの娘は、どうすればあなたの娘になれますか」
問いかけているのか自己完結しているのか、それさえも判別出来ないというのに、
「──お母様」
やめて、その名を口にしないで、私に向けてこないで、いままで着飾ってきたすべてを覆わないで。
いっそ耳を塞いでしまおうと両手を上げたその瞬間、上階からのけたたましい声で我に返る。加えて振動まで伝わってくるものだから、きっとまた姉妹喧嘩でもしているのだろうことは様子を見に行かなくたって分かりきっている。
息を、一つ、髪をかき上げる。
「…すみません、戯言です」
落ちたトーンとは裏腹に見つめてくる琥珀色から逃れたくて視線を外す。その戯言がどこからどこまでを指しているのか、尋ねるのは止めた。とりあえずいまはようやく戻ってきた理性を離したくはなかったから。
軽く頭を下げて踵を返した彼女を横目にひそかに息をつく。ふ、と。忘れ物でもしたかのように、そういえば、と。今日はやけに口を利くわねと、思ったのはそんなどうでもいいこと。特に私の前では口数の少ない娘がやたらと話しかけてくるのは何故なのか。
「どうして呼ばれたのですか」
「何を」
「名を。私の名前を」
どうしてこうも私を揺さぶってくるのか、とうに固めたはずの私の心を。灰にまみれた小娘の言葉が、眸が、存在が、私を侵食していく感覚を頭を振って無理やりに追いやって、返すのはどこかで聞いたその言葉。
「─…戯言、よ」
(それさえも侵されているというのに)
三歩進んで二歩下がるエラと気付かないうちに忍び寄られている継母。
2015.5.19