ならばおちましょう、あなたの元へ。

 変わり映えのしない景色や重くもたれた空が、なにもわたしの心を沈めているわけではなかった。お父様がこの世を去ったとき、いいえ、お母様が勇気とやさしさだけを残していったときから、わたしの世界は色付くことを止めていたのかもしれない。  お母様の、ともすればのろいのような遺言にすがって必死に誤魔化そうとしてきたけれど、一際輝くガラスの靴を割られたあの瞬間にすべてを悟った、わたしの世界はもう、色を失ってしまったのだと。 「──食事よ」  ただ一つを除いて。  緩慢と振り返れば、鍵を閉めた義理の母親―彼女はそう呼ぶことを許してはくれないけれど―が、皿を片手に近付いてくるところだった。相変わらずの極彩色が目にまぶしい。艶やかな緑はいつだって、わたしの目を突いてくるのだ。  手を伸ばせば触れるか触れないかの位置で立ち止まり、見るからに残り物しか載せられていない皿を床に置く。 「今日は食べてちょうだいね。あなたに餓死でもされたら困るから」 「…使用人がいなくなるから、でしょ」  王子、いまは国王となったその人の命により、国中でガラスの靴がぴったりとはまる女性を探しているのだと、階下で叫ぶ義姉たちの話を洩れ聞いたことがある。その使者がこの家を訪れそして去るまでは、わたしは家事をすることなくただ屋根裏部屋に閉じ込められることになっていた。  皿にはちらとも視線をくれず再び窓の外を見つめれば、背後で吐き捨てるような笑い声が洩れた。  馬鹿おっしゃい、とでも言いたそうなそれに振り向くより先に、あごに冷たいなにかが触れる。体温を持たないそれが継母の手だと気付いたときには無理に視線を上げさせられていた。 「使用人の一人や二人雇えるようになるわよ。あなたがここで大人しくしてくれていれば、ね」  一日中動き回ってなければならないほどの仕事を与える彼女はけれど、わたしとの接触はとことん避けていた。特に直接触れることを。最後に触れたのは、お父さまの旅立ちを見送ったとき以来。抱きしめられた際にも感じなかったぬくもりが、あごを乱暴に掴んだ指先から伝わってくるはずもなくて。  見下ろしてくる眸はまとった豪奢なドレスと同じように仄暗い光を宿している。 「私の望みはね、エラ」  随分と久しぶりに呼ばれた名前は正しいはずなのに、なぜだかしっくりと当てはまらなくて。 「あなたが苦しむことなの。醜く汚れて、そうして、――私のところまで堕ちてくればいいのに」  いっそ清いまでに歪んだ願いは、息が触れ合う位置にまで迫ったくちびるから。つややかに彩られたそれが、笑みのかたちに広がっていく。  自身のみにくさを理解していながら一体どうしてこの人は、黒いままでいようとするのだろうか。愛を知っているはずなのにどうして、与えようとしないのだろうか。わからない、彼女の奥底を見た気でいたのに、なにも。 「…堕ちれば、」  ともすれば憎しみさえ灯った眸を見つめ返す。眸に映されたわたしはひどく色を持っているように見えた、もうすべて失ったと思っていたのに。 「─…堕ちれば、あなたを理解することができるのかしら」  眸がにぶく動揺を返す。  なぜ自ら名付けたはずの灰かぶりの名をくちびるに乗せないのか、なぜ忌み嫌っているわたしと同じ場所にいようとするのか。そのすべてを知りたくて。  眸はなにも発しない、ただ、わたしだけを焼き付けて。 「ねえ、お母様」 (それでも灰かぶりの娘の名が呼ばれることはなくて、)
 靴が割られてから大公たちが家を訪れるまで。  2016.3.15