やさしさにふれました。
あ、と呟いたのは一瞬。体勢を立て直せられないほどに傾いだ身体は、途端に重力に素直になった。
ゆっくりと、だが確実に近づいてくる地面を、機能が半分麻痺した脳で認識しながら、しかしフィリアは受け身を取ることができない。
身体の全機能が停止してしまったかのような―少なくとも今までに彼女が経験したことのないような感覚。
徹夜した日の疲労と死に間際の眠気の中間はこんな感じなのだろうかと、重くなり始めた瞼を閉じながら思ったのはそんなこと。
いっそこのまま眠ってしまおうか。きっと痛みは感じない。
そう決め込み、走り寄ってくる黒を視界の端にぼんやりと映した瞳を、閉じた。
痛みは、感じなかった。
***
一体どれだけそうしていたのか分からない。
先ほど感じた重力は消え、代わりに何かあたたかいものが身体に圧し掛かっているようで。
その何かが気になって、フィリアはゆるり、瞼を開いた。
「ようやく目覚めたか」
「リオン、さん」
最初に飛び込んできたのは茶色く煤けた天井。
間もなく掛けられた声に首を傾ければ、夜の闇を思わせる黒が視界に入った。
誰だろうかと思案することもなくその名を口にすれば、少年は不機嫌そうに眉を顰める。
「なんだ。まだ呑気に夢でも見ているのか」
「いえ…あの、わたくしは一体…」
「お前、覚えていないのか」
『すまんのう、フィリア』
おぼろな記憶を辿っているところに声が響く。
傍らの机を見やれば、そこには先ほど手にしたばかりの老剣が立てかけられていた。
『おぬしは先の戦いの途中、倒れてしまったのじゃ』
「…そういえば」
「使い慣れていない唱術を連発すれば、身体に負荷がかかるのも当然だ」
ふう、と一つ息をつくだけで、心底呆れている様子が手に取るように分かる。
申し訳なさから、フィリアは掛けられていた毛布を少し引っ張り上げ、顔を隠した。
お荷物だった自分が、やっと力を手に入れることができた。これでもう迷惑を掛けることはないと、そう思っていたのに。
「申し訳ありません。…やっぱりわたくしは、ぐずなフィリアですわ」
「誰がそんなことを言った」
「え…」
「だから。誰がお前をぐずだと言った」
リオンからの応えが予想と違っていたことに、フィリアは思わず顔を出す。
見れば少年は、不機嫌さは変わらないようであるが、先ほどよりはいくらか雰囲気が穏やかになっていた。
なにが、と彼女は首を傾げる。
「確かにお前は、愚図で能天気で役立たずの世間知らずだ」
『凄まじい言い様じゃのう』
「だからお前は、黙って僕の後ろからついて来い」
僕に守られていればいいんだ
「守られて、とは」
「戦い方を覚えるまで、だ。…怪我をして足手まといにでもなられては困るからな」
不思議そうに顔を覗き込んできたフィリアの視線に耐えられなくなって、ぷいと顔を背ける。
一方彼女は、脳内で先ほどの言葉をリフレインし、それから口にも出して言ってみた。
守られていればいい、と。それはつまり、足手まといだ何だと散々言っていたリオンが守ってくれるということ。
ようやく言葉の意味を理解し、ふふ、と微笑みを一つ。
「はい。お願いいたします」
「お前、絶対何か勘違いしているだろう」
少年の問いに答えることはなく。彼女は引っ張り上げた毛布の陰で嬉しそうに笑むのだった。
(それでもいつか、共に戦えるようにと)
老師はひとりニヤニヤしてるに違いない。
2010.10.13