たとえばこんな夜に。
寝苦しい夜だった。暑いわけでも、逆に肌寒いわけでもなかったけど、とにかくその夜は眠ることができなかった。
何度も寝返りを打つ。まぶたを閉じる。羊を132匹まで数えてみる。それでも睡魔が訪れる気配は一向になくて。
「…はあ」
誰にともなくため息をつき、けだるい身体を起こした。
枕元の時計は午前三時を示していた。
深夜ということもあり、同居人のミサトさんを起こさないようそろりと部屋を抜ける。わずかに軋んだ音を立てながら開く扉が恨めしい。
しかし、彼女の部屋の扉が動くことはなかった。
とりあえず顔でも洗おうかと思い、忍び足でリビングに向かう。
真っ暗闇の中、手探りでドアノブを探し当て、扉を開いた。
その時、なにかが見えた。あいにくとまだ暗闇に慣れていない僕の目はそのなにかを捉えることができなかったけど、それでもなにかが、いた。
「…シン、ちゃん?」
闇に溶け込むような、聞き覚えのある小さな声が、耳朶に届いた。
「もしかして、ミサトさん?」
僕のことをそう呼ぶ人物は一人しかいないし、そもそもこの家にいるのも僕と彼女の二人だけなのだから、彼女であることは疑いようがなかった。
がた。どうやら彼女が立ち上がったようだ。椅子らしきものが後ろに動き、静かに影が近付いてくる。
僕の目はまだ、夜に適応していない。
「どうしたの、シンちゃん。寝れないの」
「はい。なんだか寝苦しくて。ミサトさんは」
「まあ、あたしもそんな感じかな。なんか、目が冴えちゃって」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。それに、無理に明るい声を出しているようにも聞こえる。
彼女は眠たそうに目を細めているのか、それとも苦笑しているのか。こちらを向いているのかさえも、僕には判別することができない。
表情が見えないことが急にもどかしく感じた。
分かり始めたと思っていた。
いつも明るい彼女も、戦闘で指揮を執る彼女も、時折寂しそうに微笑む彼女も、とびっきりの笑顔も。
すべて、知っていると思っていた、のに。
暗闇にいるだけで、顔が見えないだけで、こんなにも彼女のことが分からないのだと思い知った。
電気のスイッチを探し、恐らくこのあたりだろうと見当をつけ手を伸ばした。その手首を、彼女が掴む。弱々しい力だった。
促されるままに手を下ろす。手首にはまだ、彼女の指が絡んだまま。
「…ねえ。寝よっか、一緒に」
なにを言い出すこともできないままでいると、彼女の方から声をかけてきた。その言葉に一瞬、耳を疑う。
顔を上げても、やっぱり表情は見えなくて。
「一人より二人の方がいいもんね」
「え、と。その、あの、」
「うん、そうしよう。けってーい」
ようやく開いた僕の口は、言葉にならない音を発した。そんな僕など意に介さないように、彼女は僕の腕を引っ張り、リビングを出た。
力をこめられてもいないのに、抵抗することはできなかった。
てっきり彼女の部屋に行くのかと思えば、たどり着いたのは僕の部屋の前だった。
扉を開け、躊躇することなく入っていく。
「あの、」
「なに」
「ここ、僕の部屋ですけど」
「そうだね」
「そうだね、って」
ぼふ。彼女がベッドに倒れ込んだ。手首を掴まれているままなのだから、当然僕も同様に傾いていく。
二人分の体重を受け止めたベッドが、抵抗するように音を立てた。
ようやく夜目が利いてきた僕の目が捉えたのは、彼女の背中。いつも僕の先に立っている背中が、いつもより細く、小さく見えた。
んー、シンちゃんの匂いがする。彼女が小さくつぶやいた。
「ミサトさん、僕、別のところで寝ます」
「あら、どうして」
「だって一緒に寝るのは、その」
「そんなこと気にしないの。どうせ寝れないなら、二人でいた方がいいじゃない」
先ほどと変わらず、一緒にいようと主張する。それ以上の理由は言わないまま、ただ二人でいようと繰り返す。
僕がなにを言っても譲ってくれそうになかったので、諦めついでにため息をついた。
「む。なーにため息ついてんのよ。まだ中学生でしょうが」
「中学生でもため息くらいつきます」
「なんで」
くるり。彼女が振り返る。声のトーンからして、どうやらじとりと軽く睨まれているような気がする。いや、もしかしたら頬を膨らませているのかもしれない。
そこまで考えて、やっぱり僕は、彼女のことを何も知らないのだと思った。
もう一つ、ため息。
手を伸ばし、彼女の後方にある電気スタンドのスイッチを入れた。オレンジ色の光が部屋を仄暗く染め、まぶしさに一瞬、目をすがめる。
「やっ…」
「…え」
小さく上がった声。見れば彼女は、シーツに顔を半分埋めていた。目はかたく閉じられている。
「電気、消して」
「あの、」
「お願い」
まぶたがわずかに開かれる。懇願する彼女の目は、真っ赤に充血していた。
スタンドに伸ばしていたままの手を、そのまま彼女の頬に添える。びくり、身体がこわばり、少し震えているのが手に伝わってきた。
かたく閉じられた目尻についている雫を指で拭う。頬にかけて流れている痕をなぞり、優しく撫でてみた。
「…ごめんなさい」
なぜそう言ったのかは分からない、けど、謝らなくちゃいけない気がして。
頬から手を離し、電気を消した。再び暗闇が戻ってくる。一度光を取り込んでしまった僕の目は、闇を忘れてしまっていた。
「…ごめんね、シンちゃん」
ごめんね。彼女は繰り返す。声が、震えていた。
とっさに抱きしめてしまっていた。考えるよりも早く手が動き、思っていたよりも小さなその肩を引き寄せ、胸に掻き抱くように。
彼女の身体がまた、こわばる。
苦しいよ、シンちゃん。消え入りそうな声が聞こえて、僕はようやく、強く抱きしめていたことを知った。
短い沈黙。それからおずおずと彼女が動き、両手が僕の背中に回る。
「…ねえ」
「はい」
「今夜だけ、一緒にいてもいい?」
「さっき自分で言ってたじゃないですか、一緒にいようって」
「そう、だったね」
「僕は、ずっといますよ」
子供に諭すように言えば、ようやく緊張が解けた彼女が強く、抱きついてくる。ぎゅうと抱きしめられ、胸に顔を埋めてくる。
僕は彼女のすべてを知っているわけではない。なぜ泣いていたのかは分からないし、もちろん理由を尋ねるような間柄でもない。
でも、こうして傍にいることは、僕にだってできるから。
シンちゃんのにおいがする。
彼女がまた、つぶやいた。
(僕が少しでも、彼女の安らぎとなれますように)
シンジくんとミサトさんの関係がすき。
2011.8.28