そして朝、
ぬくもりが見当たらなかった。
「──っ、ミサトさん!」
まどろみが一気に吹き飛ぶ。毛布を跳ね除け、隣で眠っていたはずの人の名を呼ぶも、彼女はいなかった。
まだ寝ぼけているのだろうかと、自身の目を疑いながら隣に手をかざす。何も、ない。もちろん、そんなことは分かっている。
分かっているけれど、確かめずにはいられなかった。
シーツが、彼女の形をわずかに留めている。触れると、まだ体温が残っているようだった。
彼女が僕より早く起きることは、一か月に一度あるかないかだ。
それは緊急出動要請が入った時か、あるいは、
「あら、シンちゃん。随分早いのね」
リビングに入ると同時、求めていた声が僕を出迎えた。
見れば同居人であるミサトさんが、感心するように頷きながら、水入りコップを片手に立っていた。
風呂上りなのだろう彼女は、上半身は裸、下半身はジャージというなんともラフすぎる恰好をしていた。
両肩にかかったバスタオルのおかげでなんとか胸は隠れているが、健全な中学男子にはあまりにも刺激が強すぎる。
「あ、…おはよう、ございます」
急いで目を逸らし、ようやくそれだけを言う。
「ん。おはよう」
僕の様子に気付いたか気付いてないのか、ミサトさんは椅子を引き、ふうを息を一つ。暑いのか、手で顔をあおいでいた。
立ってないでシンちゃんも座ったら、と彼女に促される。さすがに目の前に座るほどの度胸は備わっていなかったので、斜め前の椅子に腰を下ろした。
彼女は持っていたグラスを机に置く。こん、と小さな音を立てたそれが、一瞬だけ静寂を破る。
半分だけ入っている水が、わずかに揺れた。
「今日は早起きなんですね、ミサトさん」
「そうね。もう大人だし、そろそろ早起きの癖つけなきゃなって」
「ミサトさんは随分前から大人でしょ」
「いいえ、あたしは永遠の、」
「二十歳、だとしても、大人ですよ」
シンちゃんのいじわる。ぷくりと、斜め前の大人は頬をふくらませる。その仕草に、言葉に、昨夜の彼女は片鱗もうかがえなくて。
――あるいは眠っていない場合。
そんな場合は当然のことながら、僕が起きるよりも先にベッドから抜け出し、シャワーを浴び、リビングに腰を落ち着ける。ちょうど、今のように。
昨日は眠れなかったんですか、そう訊きたい。けれど、訊きたくない。
僕の隣では眠れなかったんですか、僕ではあなたの涙を拭えなかったんですか、僕は役立たずなんですか。
──そう、尋ねてしまいそうで。その答えが怖くて。
「元気ないね、シンちゃん。なにか悩み事でも、」
「ないです」
「即答ね。これは匂うわ」
「昨日、ぎょうざ食べましたから」
「物理的なことじゃないわよ。でもぎょうざ美味しそうね」
「よければ今晩、作りましょうか」
「ぜひ」
そんなたわいもない会話を交わせば、彼女はふわりと笑う。
昨日の彼女の涙は僕の見た夢なのかと思わせるほどきれいな、爽やかな笑みを浮かべる。
やっぱり、彼女には僕なんて必要なかった。だって彼女は強いから。そうして僕は、子供だから。
かたり、椅子を引く。きっとひどい顔をしているだろう僕を見せたくなくて、着替えに行くふりをして部屋に向かう。
「シンちゃん」
ふ、と。振り返れば、ミサトさんは苦笑していた。昨日は、と唇が動く。
「ありがと」
ただそれだけなのに、それだけがとても嬉しくて。
「……早く着てください。服」
「あら、もしかして恥ずかしいとか」
ぷいと顔を背ける。シンちゃんかーわい、と彼女が笑う。
さっきの言葉が嬉しいことには嬉しいけれど、子供扱いはやっぱり癪だった。
くるりと身体を反転させる。それからずんずん歩を進め、椅子に横座りしているミサトさんの元へ一直線。
僕の急な方向転換に驚いているのか、口を半開きにしたままぽかんと僕を見上げてきた。
そ、と肩を押す。
「ちょ、」
無防備だった彼女の身体は、そのまま机の上に。脇にあったコップがかたりと音を立てた。
彼女の顔の横に両手を突く。まだ状況を理解してないのか、置いた手と僕の顔とを交互に見るミサトさん。
「……ど、どしたの」
「僕ももう、」
子供じゃないってことですよ。
大人の男のようにスマートにはまだなれないけれど、ミサトさんよりもまだ背は低いけれど。こんな僕でも、頼ってほしいから。
そんな意味も、暗に含んで。
数秒、数十秒の間の後、俯いた彼女の頬がぼっと音を立てて赤く染まった。
あああの、と意味をなさない言葉につられ、僕も同じ方向へと視線を送る。
途端、頬に熱を感じた。
「は、早く部屋に、戻りなさいっ!」
「はいぃっ!」
叫び声に追い立てられ、痛む左頬を押さえつつもミサトさんから離れる。
走ってリビングの外へ出ると、にゃああっという彼女の苦悶の声が一つ。
「…まだまだ子供、ってわけか」
僕と、それから彼女も。
つぶやきを一つ。着替えるべく、自室の扉を開けた。
(それでも意識してもらえたことが嬉しくて)
もどかしい距離。
2012.5.13