昼になりまして、

「おなかすいた」  斜向かいに座っているミサトさんが、机をじっと見つめながら恨みがましくつぶやいた言葉がそれだった。  言われなくても、さっきからひっきりなしに鳴っている腹の虫の音を聞けば分かる。僕の虫も、彼女に共鳴するように鳴いていた。  じとり。机に左頬を密着させたまま、ミサトさんを仰ぐ。 「誰のせいだと思ってるんですか」 「うっ」  僕の一言に返ってきたのは小さなうめき声。それは、その。言葉に詰まった彼女は、誤魔化すように明後日の方角に視線を移す。  窓辺でひなたぼっこをしていたペンペンと目が合ったのだろうか、くえぇ、と鳴き声が一つ。  ***  正午のこと。  ようやくミサトさんの部屋の掃除を終えた僕は、久しぶりに会えた床に腰を下ろした。  珍しく予定がない休日にわざわざ掃除をしようと思い至ったのは別に僕の性ではない。  ただ、なにかに没頭していないと思い出してしまいそうだったのだ。さっきの光景を。  ぼうとしていると頭に浮かぶのは青みがかった髪。朝日を受ける白い肌、それから、 「…変態みたいじゃないか、僕」  急いで頭を振る。頬に熱が集まってくる。ああ違う、健全な男子中学生ではあるけれど、変態ではないんだ、決して。  そうだ、昼ごはんをつくろう。  次の仕事を見つけた僕は、足早に部屋を出た。  ──それから、ちらりと見えた傷  胸から腹へと続く、長い傷痕。鋭利な刃物で斬られたわけでも、銃弾を受けたわけでもない。引き裂かれたような、痕。  セカンドインパクトに遭遇した時の傷だろうか、そんな考えはもちろん僕の想像でしかない。  傷を見るのは初めてだし、彼女がそれについて言及したこともないのだから。  ずきり。胸が小さく軋む。なにも話してもらえないことに、責任転嫁だと思いつつも怒りを覚える。  僕が話すに足る人間でないだけなのに、わざと目をつむって。 「…ごはん、つくらなきゃ」  そうしてリビングの扉を開け。鼻を直撃した異臭に、思わず卒倒しそうになった。 「あっ、シンちゃん」  聞こえた声は同居人のそれ。悪戯を見つかった子供のような、バツの悪さを含んだ声音だ。  その言葉とこの臭いだけで、なにが起こっているのか判断するには十分だった。  鼻をつまんだままキッチンへ向かう。つんと鼻を突く臭いのせいでくらくらする視界に、ミサトさんらしき人が映る。  僕の方を見ようとしないあたり、予想は外れてはいないようだ、残念なことに。  コンロには鍋らしきものがあり、中身は紫色の何かで満たされていた。ごろごろ浮いているのはおそらくじゃがいもなのだけれど、変色してむらさきいもに見える。 「…これは、なんですか」 「…カレー」 「どのあたりが」 「じゃがいもとにんじんとお肉が入ってるあたり」  どこを探してもにんじんと肉は見当たらない。 「…僕の知ってるカレーと違う気がするんですが」 「世界は、君の知らないことで満ち満ちてるのよ」 「そのセリフは別の場面で聞きたかったです」  真面目な顔で突っ込みを入れれば、しゅんと肩を落としたミサトさんがごめんなさいと謝罪を口にした。  そんな、叱られた子供のような落ち込み方を見ると、本当に僕より一回りほど年上なのかと疑ってしまうほどだ。  こんなことを言おうものなら、頬をふくらまして怒られそうだけど。  でもね、と。混ぜれば混ぜるほど色を変えていく不思議なカレーもどきを見つめる僕に、彼女は二の句を継ぐ。 「おなかすいたし、シンちゃん熱心に掃除してるし、邪魔するのも悪いかなと、思って…」  僕を労わってくれている気持ちは十分に伝わってきた。嬉しい。嬉しいけれど、気持ちだけで十分だった。  なんて言ったらもっと沈んでしまいそうだから、彼女には秘密だ。 「シンちゃん、それ全部口に出てるから」 「なんの話ですかミサトさん。おなかすいただなんて、思ってませんよ」 「うう…ごめんなさい」  いけない、少し意地悪になりすぎただろうか。ちらりと横目で窺えば、彼女は若干涙目になっている。  何事にも限度というものがあるわ。そう言った綾波の言葉をふと思い出す。そう、限度が大切なのだ。 「ちなみに冷蔵庫の中の食材って、」 「全部投入したわよ」 「カレー、食べますか。ミサトさんだけ」  ***  そうして冒頭に戻るのだが。  もはやカレーとしての原色を失ってしまったものには、とりあえず蓋をして見ないふりをした。  本当に冷蔵庫内の食材すべてを投入してしまったようで、ビールや調味料以外はきれいに姿を消してしまっている。  食材を買いに行かなければならないのだが、掃除とそれから意識を逸らすことに全力を費やしてしまった僕に、買い物に出かける気力は残っていなかった。  なんだかミサトさんを弄ることにも疲れてきたので、彼女と同じ方向に視線を送る。  突然注目されたことを不思議がるように、くええ、と首を傾げてもう一声。そもそも首がどのあたりにあるのかも分からないけれど。  それにしてもペンペン、最近太ったような気がする。お腹まわりはふかふかしてとても美味しそ、 「だめよシンちゃん!」 「はっ! 僕は何を…っ」  ミサトさんの声で我に返れば、口の端をよだれが伝っていた。危険を感じ取ったのか、ペンペンが身体を震わせている。  捕食者の目をしてたわよ、とミサトさんが胸を撫で下ろした。 「すみません、つい」 「つい、で大事な家族を捕食されても困るわ」 「くえ」 「この子は飢饉の時まで大事に育てるんだから」 「くええっ!」 「僕よりたちが悪いですね」 「冗談よ冗談」  ふふ、と。笑みの後に訪れたのは、やわらかな静寂だった。彼女はゆるり、目を閉じる。だめね、誰にともなくつぶやく。 「家事がてんでだめだなんて。よくこれまで生きてこれたなって、自分でも思うわ」 「僕も不思議です」  確かに、初めてここを訪れた時は、まさに惨状と呼ぶに相応しい現状だったと思う。この人はこんな家で生きていたのかと逆に感心したほどだ。  けれど今は、僕がいる。掃除だって料理だって洗濯だって、僕が引き受ける。  ミサトさんは僕の料理を美味しそうに食べて、ただ微笑んでいてくれるだけでいい。僕だけのために、笑ってくれるだけでいい。  そう、言おうとした。 「ほんと、だめ。これじゃあ一人になった時困るわ」  ──なのに彼女は、僕がいない未来の話をする。彼女の隣に僕が存在しない未来を仮定する。  思わず上体を起こした僕に、彼女はてへへ、と笑った。 「こんなんじゃ、シンちゃんも安心して出て行けないでしょ」 「…僕は、」 「あーやっぱシンちゃんに習おうかな、料理」  また、だ。  彼女はまた、一人で生きようとしている。今だって無理に笑って、そうしてすべてを隠して、僕に笑いかける。  僕はこんな笑顔のために傍にいたんじゃない。離れるために、一緒にいたんじゃない、のに。 「…ミサトさんは、嫌なんですか」 「ん、なにが」 「僕と一緒にいるのは、嫌なんですか」 「だって、ずっと一緒ってのは無理でしょ。いつかは出てくわけだし、シンちゃん」  膝の上で握り締めた手が、震える。彼女がなにを言っているのか、理解できなかった。理解したくもなかった。  僕が出ていくのだと、彼女の傍から離れようとすると、本当に思っているのだろうか。  問いかけに答えることもなく、ね、と同意を求めるように笑いかけてくる。  そんな顔が見たいわけじゃ、ない。 「僕は、出て行きません。だって僕は、」 「やめて」  ゆるり、視線を外される。フローリングを見つめる彼女の横顔が、歪む。  どこかで見た表情だと思った。  それがあの夜、僕の部屋で彼女が見せた表情だと気付いたころには、長いまつげが伏せられ、目を窺うことは叶わなかった。 「…あたしが、だめなの」  そうして彼女はぽつりとつぶやく。  シンちゃんがやさしいから、こんなあたしにもぬくもりをくれるから。そうしていつか君が去ってしまったら、どうしようもなく淋しくなってしまうから、と。 「だから、言わないで」  その先は言わないでと、彼女は笑った。さみしい、笑みだった。 「…僕は、」  彼女がふるふると首を振る。  その先を口にすることはできなかった。 (なにが言いたいのか、なにを言えばいいのか、わからなくなっただなんて、)
 言葉はずっとあるはずなのに。  2012.9.14