夕闇は嫌いだと彼女は嘆いて、

「嫌いなの」  ぽつり。部屋に落ちた言葉に、思わず手を止めた。てっきり眠っているのだと思った僕は、彼女の背中に毛布をかけようとしていたのだけれど。  椅子に逆向きに座り、椅子の背もたれを両腕で抱くように座っているミサトさんの視線は開け放された窓の外、橙から黒に転じようとしている世界に向けられていた。  太陽が世界に今日と言う日を残す、最後の時間。  嫌いなの。もう一度、彼女はつぶやく。 「夕闇が、嫌いなの」  ささやかれた言葉はきっと、僕に宛てられたものじゃない。それでも、背にしがみつき縮こまる彼女が、まるでこの世界にたった一人残されたかのように見えて。 「どうしてですか」  ほのかにぬくもりを残しているフローリングに腰を下ろし、立てた片膝の上にあごを乗せる。  目の前一杯に広がる世界の色はきっと、彼女の目に映るそれと同じ色のはず。  ──ひとりぼっちなんて、あまりにも寂しすぎるから  僕はミサトさんと世界を共有する。窓から見えるだけの小さな世界を、ふたりぼっちにする。  彼女は息を一つ。空気をわずかに震わせたそれは、太陽を呼び戻すためにはき出されたようにも思えた。 「…置いていかれるから」  始めと同じように。落ちた言葉は今度こそ、僕に向けられていた。  反応してもらえたことが少し嬉しくて、僕は彼女の次の言葉を待つ。そうして頭で反芻するんだ、置いていかれる、と。 「太陽でさえ、あたしを置いていっちゃうんだ、って。そう思って」  一言ずつ、確かめるようにこぼれていくそれを一つずつ拾い上げる。集めるたびに、胸がくしゃりと軋む気がした。  それはまるで──まるで、僕と同じだったから。昔の僕の心を、想いを、代わりにミサトさんがはき出しているような、そんな気がしたから。  暗闇は、嫌いだった。  人といることで傷つくことは嫌だけど、それよりもひとりぼっちになることが嫌だった。  だから、誰も見えなくなってしまう暗闇は、嫌い。夜が来ることを告げる夕闇も、嫌いだった。  黒く塗りかえられようとする部屋で僕はいつも一人、膝を抱えて恨めしい太陽を眺めていた。  そうしてあいつは明日、何事もなく昇ってくるのだと、どうしようもない恨み言を吐きながら、一人きりの夜を過ごしていたんだ。  そんな幼い日の僕と、隣に座るミサトさんの姿が、重なる。  太陽は嫌い、夕闇は嫌い、暗闇は嫌い、ひとりぼっちは、きらい。  子供のようにあれも嫌いこれも嫌いだと挙げ連ねて、 「……なんにも成長してないな、あたし」  自嘲気味に洩れた言葉が、頬を濡らした。 「ね、幻滅しちゃうでしょ、こんなあたし」 「そんなことないです」 「ひとりが嫌いだ、なんて。そんな子供みたいなこと。ほんと、」  ばかね。  視線を向けられることなく告げられたそれは、とても寂しかった。  僕も、と。口を開けば、ミサトさんがちらりとこちらを見た気がした。 「ひとりぼっちは、嫌いでした」  それなのにどうして、 「どうして、平気になったと思います?」 「それは、…シンちゃんは、強いから」 「いいえ、僕は弱い人間です。大事な家族一人笑顔にできない、非力な子供です」  大事な家族、とミサトさんが僕の言葉を反芻する。口にして、噛みしめて。ちらりと見上げると、ようやく彼女の目が僕を映してくれた。 「僕には、ミサトさんがいるから」  言葉にすれはそれはとてもしっくりと当てはまった。不安そうに揺れていた彼女の眸が、丸くなる。  暗闇は嫌いだった。  けれどいつしか、怖くて目覚めることは少なくなっていた。  同じ家に誰かがいる、誰かが僕と同じ空間を共有している、そう思うと恐怖なんてどこかへ行ってしまっていた。  暗闇が怖くなくなった。ひとりぼっちだった僕は、いつの間にかふたりぼっちになっていた。  それも全部、全部、 「ミサトさんのおかげなんです。ミサトさんがいてくれたからなんです」  精一杯の想いをこめて、ミサトさんを見つめる。  僕に彼女がいてくれたように、彼女にも僕が付いているのだと。ひとりぼっちなんだと、思ってしまわないように。 「あたしは何もしてないわ」 「僕を見てくれました。僕といてくれました。僕を認めてくれました」 「そんなこと、」 「それだけで、僕は嬉しいんです」  ずっとずっと、言いたかったこと。いつか彼女に言おうとしていたこと。  僕がどうしてここまで来られたのか、どうしてここに留まることができたのか、どうして──  だから今度は、僕の番です」  ──どうして、あなたじゃなきゃ駄目なのか  僕はずっと、ミサトさんといます。絶対に一人きりになんかさせません」  だから、 「だから、ひとりぼっちだなんて、言わないでください」  拙い言葉に、ありったけの想いをこめて。じ、とミサトさんを見つめると、息を一つ、彼女は微笑んだ。頬を濡らしながら、僕が大好きな表情を浮かべた。  そんな彼女に、僕が言うべき言葉は一つ。  立ち上がり、す、と手を差し出す。 「寝ましょう、一緒に」  昨夜の彼女の言葉をそっくりそのまま返せば、そ、と手の平が重ねられる。  夜はすぐそこまでやって来ていた。 (あなたのおかげで存在できた僕を、今度はあなたのために、)
 このてのひらからも、そんな想いが伝わりますようにと、  2012.11.25