どうしようもないほど大人なあなたに、
「──つまり、スランプってことかしら」
「その単語は言わないでってば!」
だん、と。勢いよく置いたグラスが思っていたよりも大きな音を立てた。他の客の視線が一瞬こちらへ集まったもののすぐ、もとの喧騒へと帰っていく。
「ただちょっとアイディアが思いつかないし作っても納得がいかないだけよ」
「面倒くさい子ね、あなた」
呆れた調子で息をつくカルロッタを気にせずもう一度グラスに口をつけるも、いくら傾けたって潤わない。空になったのだと、回りの鈍い頭がようやく行き当たる。ウェイターを呼び止め注文すれば、ちょっと飲みすぎよと、同じくおかわりを頼んだ彼女がたしなめた。
飲みすぎなもんですか。たしかにちょっと呂律が回らなくなってきたし、体温だっていつもよりずっと高いけど、身体はまだまだアルコールを欲しているのだ、飲まずにはいられない。
早速テーブルに差し出されたグラスを一気にあおる。ひりひりと焼けつくようにのどを通りすぎていった熱が、身体を強制的にあたためていった。
「無茶な飲み方しないの」
まるで言いつけを守らない子供を諭すみたいなやさしい口調とともに、グラスを持つ手に指が触れる。手袋越しの体温がひんやり冷たく感じるのは、私が熱を持ちすぎているせいだろうか。
重い首を傾ければ、常とはちがい露わになっている左の眸と視線が絡んだ。深い森を思わせる色に、やわらかな感触に、ずきりと、私のどこかが悲鳴を上げる。
「…あなたのせいじゃないの、カルロッタ」
ぽつり、恨み節がこぼれたのは、無意識。
春の足音がもうすぐそこまでせまっていた。
去年に引き続き今年も祝祭が開催される運びとなり、それに向けてアイディアを練っていたのだけど、完成まであと一歩というところでどうにもうまくいかない。デザインを描き起こしてもかたちにしても、どうしたって納得のいく出来にならなかった。
原因はわからないものの、その元凶だけははっきりしている。私の目の前に座る、カルロッタ・マリポーサその人だ。
そういえばカルロッタはどうしているかと、ほんの少し思い浮かべただけなのに。それからというものなにをしても上の空。もうすぐ一緒に舞台に上がれるという高揚と、今年はどんなファッションで魅せてくれるのだろうという期待と。それ以上にふくらんだ不明瞭な感情が私を苦しめる。一番だいすきな作業が手につかないだなんて、いままでなかったことなのに。
こうして頭を悩ませるよりも直接顔を合わせた方が早く解決するだろうと、彼女を呼びつけてみたものの、なぜか速まる鼓動をひとり抱えるばかり。だって久しぶりに目にしたカルロッタは記憶していたよりも凛と美しくて、だというのに私を見とめた途端その顔を可憐な笑みで彩って。
酔いに任せないとまともに目も合わせられない。もう何杯目か、数えるのも面倒なほど飲み干したというのにまだ、こうして視線が絡んだだけで心臓がうるさく鳴り響く。彼女の言う通り飲みすぎたせいだと、ぼんやりかすむ思考がすべてをアルコールのせいにする。鼓動の速さも、熱が身体を蝕むのも、目の前の人のこと以外なにも考えられないのもぜんぶぜんぶ。
「どうしてそこで私のせいになるのよ」
「だって」
「だって、なあに」
ひたり、眸がまっすぐ私をとかしこむ。投げようとしていた言葉がのどを滑り落ちていく。なんてきれいな眸なんだろうと、状況にそぐわない感想だけが思考を占める。思えばずっと焦がれていた。ひたむきな姿勢に、真摯な考え方に、他のデザイナーをも受け止める包容力に、そして私を映しこむこの、色に。それがどうしてなのかはやっぱり、わからないけど。
続きを取り出せずにいる私にふわり、彼女は笑みを深める。
「わからないんでしょう」
「…え、」
「原因。どうして思うようにいかないのか」
自分にさえ正体の知れないなにもかもをすべて汲み取ったみたいに─そんなことあるはずがないのに─言葉を継いだ彼女はグラスのふちをぐるりと撫ぜて。きっとわからないままでいいのよと、喧騒が消え、彼女の音ばかりが耳をくすぐる、そのままでいいの、と。
首を傾げてみせた私の手をぎゅ、と。重ねられたままだった指がにぎりこまれる、たったそれだけで、思考がぜんぶそこに集中してしまいそうになる。
「答えの出ないものを追及したって堂々巡りが続くだけ。それなら、あなたはあなたのままでいるしかないじゃない」
「…私のままで」
「そう。わからないっていう感情をそのままぶつければいいのよ」
そうすれば自ずと見えてくるんじゃないかしら、だなんて。なんにもわかってないはずなのに、だけど言葉ひとつひとつが身体に染みこんでくるようで。彼女に言い聞かせられてしまえばいつだってそうかもしれないと思えてしまうから不思議。わからないままでいいのだと、無理に答えを求めなくていいのだと、そう。
視線をつと、落とす。グラスの水面は揺れていたけどもう、口にしなくてもいい気がした。
ぽん、と。私の甲を軽くたたいた手が離れていく。どうして離してしまうのかとなかば恨めしさをこめて見つめれば、苦笑した彼女がふと腰を浮かせ、腕を伸ばしてそのまま頬に触れて、紅を引いたくちびるが近付く──キスされちゃう、と、ぼんやり考えて、
「──それでも飲み足りないってときは、いつでも呼びなさい」
呼吸が触れる距離にまでせまった紅が弧をえがく。その眸に、色に見惚れてしまっているうちに、ついに重なることのなかったくちびるがウェイターを呼び止め、チェックを願い出ていた。
我知らず頬をふくらませる私に微笑みかけた彼女の表情は憎たらしいほどの余裕に彩られていて。
「─…しかたないから、呼んであげるわよ」
子供みたいに言い返しながらだけど、今夜会ってみてよかったと。安堵さえ浮かぶほど、彼女のことを。
(惹かれている、なんて事実、認めたくはないけど)
まだまだ子供なグローリアちゃん。
2018.3.17