春のように儚くて、春のように一瞬で、
おきてカルロッタ、と。太陽みたいなきらめきがささやいた気が、した。
「ん…、おはよう」
まぶたを開けるよりも先に、だれにともなく朝の挨拶を向ける。窓の外を泳いでいるのであろう鳥たちが無邪気な声を返し、木々がその葉を揺らして。
ふ、と。世界と対面して最初に映ったのは、もう見慣れたまっさらなシーツ。ひとりでは持て余すそれが、まぶしいばかりの朝日を反射していて。
またたきをひとつ、ふたつ、知らず微笑みがのぼる。今日は朝と呼べる時間帯にひとりできちんと目を覚ますことができた、と。上体を起こし、うんと伸びをしながら思ったのはそんなこと。それでも浮かんでくるあくびを噛み殺しきれなくて、ひとつふたつと。
昨夜も夜を更かしすぎてしまった。どうしてあんな深夜まで起きてしまっていたのか、意識を呼びとめられるその瞬間までどんな夢に沈んでいたのか。覚醒間際特有のまどろみにとかされそのすべてが曖昧に消えていこうとしているけれど。しあわせな夢だった気もするし、かなしい夜だった覚えもあるし。思い出そうとしてつきり、頭の奥が鈍く痛む。
そうよ、まだ朝のコーヒーを飲んでいなかった。
ベッドに触れていたいと駄々をこねる身体を無理に引きはがし、キッチンへと足を運ぶ。
並んだ藤色と太陽色のマグカップを手に取り、ふたり分の豆を挽き、湯を丁寧に注ぎ入れて。少し渋みのある香りが鼻をくすぐる。きっとこれは私のすきな味。けれどあの子が口にしたらきっと眉をひそめ、少しにがいわよ、なんて不満を洩らしそうだから、砂糖もちゃんと用意してあげないと。外では平気な顔を繕って飲み干すくせに、私の前だけでは子供舌を隠そうともしないのだから。そこがかわいくもあるのだけれど。
ありありと想像できるその様子に苦笑をこぼしつつ、シュガーポットから砂糖をひとつ取り出して、
──あの子、って、だれ、
ぽっかり浮かんだ疑問に手が、止まる。
ブラックを好む私が砂糖を必要とするはずがないのに。ふたつ分のマグカップも、コーヒーも、ひとつきりでいいはずなのに。
網膜よりももっと深い場所がずきりと悲鳴をあげる、私はなにかを忘れてしまっている、なにかとても大切なこと、とても大切な人、けれど一体なにを、だれを。
ともすればその場にくずおれてしまいそうになる身体をなんとか支え向かうはベッドルーム。ひとりで眠るにしては大きすぎるベッド。私はいつも太陽を背にして横たわるはずなのに、昨夜ばかりはあの子が反対側をねだって、だって夏の光がまぶしいから、なんて。
夜闇に浮かぶ大粒の涙、まだ両腕のうちに残るたしかなぬくもり、わすれてねと落ちた声。次から次へと記憶がなだれこんでくるのに、肝心の持ち主の姿はなにひとつ思い出すことができない。どうか私のことはわすれてと──きっとそんなこと願ってもいないくせにこんなときだってあの子は私のことばかりを心配して。
割れんばかりの頭痛に襲われる、視界が明滅する。
私がぜんぶ持っていくからと、涙をこぼしながらそれでもあの子は笑っていた、気がする、私がまぶたを閉ざす最後の瞬間まで。持っていかせやしないわと、あらんかぎりの力で抱きしめたはずなのに。逃がしてしまわないように、さらわれてしまわないように、閉じこめていたはずなのに。
震える手で毛布をめくる。はらりと、風にあおられた目に鮮やかな花弁が無情にも床にちらばっていく、いくつもいくつも。腕に抱き留める先から陽光にとかされて、まるではじめから存在していなかったみたいに。
あの子のやわらかな口調も、甘やかな香りも、陽だまりを思わせる体温も。こんなにも覚えているのに、わすれてなんかいないのに、
「─────っ、」
あの子の表情を、眸の色を、名前を。なにひとつ取り出すことができないなんて。
(春とともにいなくなったあの子は、だれ、)
あなたのいない春の、おわり。
2018.5.24