たとえばそれは春の夢のようで、

 まるで陽にとけていくような声で。 「もうすぐ春が終わるから」  続く言葉は風にかき消されて、けれどその先をどうしてだか知っていた。  にこりと、いつも通りに笑みを浮かべた水槽色の眸に水が張ることはない。グローリア、そう口にしたはずなのに、からからに乾いた喉が音を取り出してはくれなかった。  予感はしていた、だって彼女がどこかかなたへ視線を投げることが増えたから。私はいつだって春そのものみたいにまばゆい彼女を追いかけていたけれど、その視線に応えてくれる回数が少なくなって。それでも憂う表情が増えたわけでもなく、むしろ祝祭の最終日に向けて熱が入っていって。  だからただの思い過ごしだと考えていた、そう信じたかった、なのに彼女は無情にも告げる、もうすぐ春が終わるから、だなんて。  私たちふたりを照らしていた陽光が、火山の向こうへと姿を隠そうとする。彼女の影だけが伸びることなくその身をとかしていく。  カルロッタ、と。呼び声が私に届く前に落ちて。 「──私は、しあわせだったわ」 「…っ、グロー、」  太陽の最後のきらめきが消える直前。なにかに弾かれて伸ばした手はけれど空を切り、ひときわ強く吹き抜けた風が色とりどりの花弁を宙へと散らしていって。  ひとかけらの花弁さえ残らない空間をただ、抱きしめた。  ***  あの子が春にさらわれて一ヶ月が経った。  お願いですから少しでも身体を休めてくださいとモデルたちに懇願され仕方なくベッドに横たわれば、認識していなかっただけの疲れはけれどきっちり蓄積されていたようで、鉛のようにずしりとシーツに沈んでしまった。  重たいまぶたを閉ざす、けれど漆黒のはずの視界に浮かんだのはあの日見た光景。  ざあ、と。夕陽のきらめきとともにとけていった満足そうな微笑みが。風に吹かれて散っていったとりどりの花弁が。一度だってこの腕のうちに留めることのできなかったあの子が。脳裏から、眸から、かたときも離れることがなくて。酸素がうまく取り込めない。胸をかきむしりたい衝動に駆られて、けれどそうしたところでこの苦しみから解放されるはずないこともまた理解していて。  まぶたを開く。目に鮮やかな橙色の残像が消え、見慣れた天井が現れる。  あの夜から一度もまともに眠れたことがない。寝ようと眸を閉じればまぶたの裏に景色が映り、私の喉をぎりぎりと締め付けていく、何度でも。だから休みたくなかったのに。仕事に打ちこんでさえいれば、あの色を思い出すこともないのに。  ごろ、と寝返りを打つ。身体のどこかが軋んで思わず眉をひそめる。自然、細まった視界に飛びこむチェスト。気怠い腕を伸ばし、大切に仕舞っておいたそれを取り出す。  あの日──あの子が私の目の前からいなくなった、あの瞬間。  それまで影が揺れていた地面にぽつんところがっていた小さな小さな種。なんの花の種かは、知らない。見覚えがあるような気もするし、いつだったかあの子が教えてくれた気もするけれど、その説明も声も表情だって思い出すことができない。  まだひと月しか経っていないのに、あの子に関する記憶がほどけていく。抱えていたいのだと、忘れたくないのだと叫ぶ私を嘲笑うようにするすると、まるではじめから、あの子なんていなかったみたいに抜け落ちていって。 「…グローリア、」  もしもあのとき、名前を最後まで紡ぐことができたなら。もしもあの一瞬、指が届いていたのなら。あの子を留めることができたのだろうか、あの子は散らずに済んだのだろうか。考えても仕方のないもしもを繰り返してしまう、こうして悔やんだところで、涙を我慢したところで、あの子が帰ってくるはずもないのに。  せき止めていたはずの想いがこぼれていきそうになる、名前を呟いてしまったからかもしれない、ただひとつあの子の残したなにかも知れない種を握りしめ、グローリア、と、もう一度、いとおしい響きを落として、  ──それ、が、かたりと、震えた気がした。  かたく握りこんでいた指をほどく。手のひらには変わらず種がぽつんとひとつ。勝手に動くはずなんてないのに、ふと灯った滑稽極まりない希望にさえ縋ってしまいたくなって。 「グローリア、」  知らず震える名前を受けて、かたり、まるで声に応えるみたいに。 「グローリア」  かたり、見間違いでなくたしかに手のひらの上をころがるそれ。  グローリア、だ。あの子はまだ、ここにいる。この種があの子のかけらなのかそれともあの子自身なのか、そのどちらかはわからないけれどたしかにあの子が反応してくれているのだと、そんな願望にも似た確信が胸の内にひらめいて。  グローリア、グローリア、ねえ、グローリア。両手で掲げ持ち、顔を寄せて呼びかける。グローリアと、発するたびにかたり、かたり、こちら側へ距離を詰めているようでもあって。 「─…ああ、」  頬を熱がつたっていく、いまのいままでこらえていた雫があの子をにじませる。  いきていた、さらわれてなんかいなかった、だって名前を受け止めてくれる、声に反応してくれる、私を認識して、近付いて、いまにもあの子の春風よりも澄んだ声が聴こえてきそうで、ねえグローリア、あなたはずっと近くにいてくれていたのね、私のそばにずっと、だというのに私が目を背けてしまっていて、ねえグローリア、私ね、あなたに伝えたいことがたくさん、たくさんあるのよ。  しっかりと引き寄せ、軽いくちづけを送る。かたり、あの子が身を揺らした気がした。  ***  この子をプランターに移して三日目。  土をかぶせて一日で芽を出し、二日でひとつ、三日でふたつ、葉を覗かせた。普通の種子ではないと思っていたけれどまさかここまで成長が早いとは。  もっと、とせがまれた気がしてもう少し水をかける。  温室の草木に水を与えるのはモデルたちの仕事だけれど、この子の世話だけは私が引き受けた。  一日一日、たしかに育っていく様子に表情がゆるむ。あの子と一緒に感情まで失ってしまったと思っていたのに。心にぽっかりと生まれた空白をまた、この子自身が埋めてくれて。  膝を折り、目線を合わせる。そうすればこの子もかわいらしいふたつの葉をこちらに向けてくれる。  この子を育てることになってからというもの、あれだけすべり落ちていたあの子の記憶を少しずつではあるけれど拾い集められるようになっていた。いまもそう、じっと葉を見つめていると、水槽みたいに透き通っていたあの子の眸に見つめ返されているようで。 「今日もお元気そうですね、先生」  他の草木たちに水をやっていた若いモデルが朗らかに声をかけてくる。  四日前までの憔悴を知っている者─つまりうちのモデルたちみんなだけれど─は、ようやく笑みを取り出せるようになった私にひどく安堵していた。きっとあの一ヶ月の間、多大な心配をかけてしまっていたのだろう。  心の内で謝罪と感謝をそっと送りながら、彼にも微笑みを向ける。 「この子が喜んでいるみたいだったから」 「先生って、花の表情がわかっちゃうんですね。僕はまだぜんぜん」 「ふふ、まだまだ修行が足りないわね」  温室で育てているものはもちろんのこと、アトリエの外に広がる草木やそこに息づく動物たちの声は、ニュアンスではあるけれど理解できていた。  けれどこの子はそれとはまた異なる。より人間に近い、とでも表現すればいいのだろうか。花というよりも私たちに似ていて、さらに言えば成長するにつれあの子そのもののように思えて。  もう一度視線を戻せば、ぶる、と揺すった葉から雫がこぼれ、土に吸いこまれていく。もっと、とまた水の催促。 「またおかわり? 飲みすぎで太っても知らないわよ」  忠告しつつもこの子に弱い私はまた、じょうろを傾けてしまっていた。  ***  四日目にはつぼみをつけていた。細長くすぼんだそれをくいと屈め、今日も水を求めてくる。 「せっかちなのは相変わらずなのね」  口調だけは呆れたそれを装い、水をあげる。つぼみの弾いた雫が昨日よりも数を増した葉を濡らす。土にもまんべんなく含ませると、高い天井から差しこむ日光を浴びるみたいにうんと茎を反らせた。  そういえばあの子もよくこうして伸びをしていたことを思い出す。  バージに乗りこんだときは決まって太陽に向かい、ときには両腕を広げ心地よさそうに眸を細めていたけれど、いま考えればあれは光合成でもしていたのかもしれない。陽光をいっぱいに取りこんだ後のあの子は特段、ステージを溌剌と彩っていたから。  太陽の光にそっくりの髪がきらきらと輝いていたことを覚えている、こんなにも。  つぼみをそ、と撫でれば、すり寄るみたいに指にもたれかかってくる。その様子がかわいらしくてくすくす笑みをひとつ、あの子にも手を伸ばしていればこんな風に甘えてきたのだろうかと、思ったのはそんなこと。 「ねえ。あなたはどんな色の花を咲かせるのかしら」  問いかけても、答えは与えられない。そうよね、まだわからないわよね。  そんなに時間を置かないうちにまみえるであろう花を思い浮かべ、目尻をとかす。可憐な黄色か、情熱的な橙色か、それともまばゆいばかりの黄金色か。この子のことだからきっとどの色でも美しくまとうのだろうと簡単に想像がついて、そしてどんな姿であろうといとおしさを感じることも目に見えて明らかで。 「成長はやいですね、この花」  ひょこり、私の肩越しに顔を覗かせた昨日の彼が感心したように洩らす。 「魔法でもかけてるんですか、先生」 「いいえ、きっとこの子自身の力よ」  冗談ぽくかけられた言葉にやわく笑んでみせれば、彼はきょとんと目を丸めた。  ***  一週間目にしてようやく花が開いた。  ようやく、と言っても、普通の花とは比べるべくもなく早い開花ではあるのだけれどそれでも私はこの子の目覚めをずっと、それこそあの子に出逢うずっと前から待ち望んでいた気がする。どうしてだかはわからないけれど。  凛と輝く太陽色の花弁。ドレスの裾のように広がるそれは想像していた通り、いいえ、想像よりもまぶしく私の目に映る。  温室のどの花よりも鮮やかなこの子は、まとった色に満足しているのかどこか誇らしそうに花弁を揺らす。みてみて、と見せびらかしているみたい。 「がんばって咲いたわね」  散らしてしまわないよう気にかけながら、花弁の裏をやさしく撫でる。うれしそうに左右にゆらゆら揺れ、そうしていつものように水をねだってくる。はいはいと促されるまま水をあげれば、花弁いっぱいに受け止めた。  そういえば一度だけ、あの子と連れ立ってマーメイドラグーンまで足を運んだことがあった。  春だというのに、季節を間違えたように暑い日。泳ぎにいきましょ、だなんてきらきらした眸で提案するものだからつい二つ返事で了承してしまって。  オーシャンに教えてもらった穴場の水辺には私たち以外の姿は見当たらず、早速ホルター型の水着に着替えたあの子は一目散に湖水へ飛びこんだ。  心配する私をよそにすぐ浮き上がり、濡れた髪を無造作に払いながら、気持ちいいからはやくきて、なんて。子供みたいに無邪気な笑顔を覚えている、こんなにも。 「グローリア」  この子が芽をつけてからはじめてあの子の名前を口にした。  途端、指に絡みつくようにしなだれてくる。この子も響きを気に入っているのだろうか。それならばこの子も、あの子と同じ名前で呼ぶことにしよう。いつまでも名無しではかわいそうだから。 「グローリア。ねえ、ずっと思っていたんだけど、きれいな名前よね」  あの子には伝えられなかった言葉を告げれば、グローリアは喜びをにじませて笑った。  *** 「カルロッタ。ほら、言ってみて」  目の前に据えた椅子に腰かけ、復唱するよう促してみたものの、どうしたらいいのかわからないといった風に首を傾げてしまった。  まだ自分の名前くらいしか認識できないらしいグローリアに言葉を教えようと試みたけれど、どうやらまだ早かったようだ。  ここは私の作業部屋。  成長したグローリアの花弁が、私が離れるたび悲しそうにしおれるものだから、見かねてプランターごと自室に運んだというわけだ。  日当たりのいい場所に移すと、ぱあと表情を明るくする。つくづくこの子に甘いものだと呆れてしまうけれど、この笑顔が見られるのならよしとしよう。  いつものように水で満たしたコップを片手に、もう片方の手でグローリアの後頭部をやさしく支え、口元に運んであげる。ゆっくり傾ければ、赤子が乳を飲むそれのように一心にのどを鳴らす。そうして飲み干したグローリアは満足そうに笑うと、スカートの裾をつまみ上げくるりと回ってみせた。  喜びの表現、なのだと思う。ひらりひらりとプランターの上を軽快に飛び回ってみせるグローリアに、こけないのよ、なんて口をすっぱくしてみるけれどきっと、素直に聞くことはないのだろう。  思えばあの子もこうして優雅に舞っていた。  ステップ、ステップ、ターン、まるで私には見えない相手がいるのではないかと錯覚してしまうくらい。  一緒におどりましょうよ、と誘われたことは何度もある。あなたほどうまくないもの、そう遠慮してきたけれど、一度くらいその手を取っておけばよかった。あの子の手のぬくもりさえも私は知らないのだから。  後悔が表に出てしまっていたのか、ふ、と。ふれた温度に顔を上げれば、指を重ねたグローリアが私を見つめ、ふいに笑って。  手をつなぎ合わせたままふわり、肘をいっぱいに伸ばしてターン、まるで羽が生えたみたいに軽やかに。グローリアにつられてぎゅ、と指を握りこむ。指の先からじんわりとぬくもりが広がっていく。これがこの子の体温。たしかに感じるそれに口の端がほどけていく。まるで心の内を読んだみたいに簡単に私をすくっていく、そう、いつだって。 「失礼しますね先生、…あ、ついに咲いたんですね、その花!」  ノックと同時にかけられた声に振り向けば、いつもの彼が腕いっぱいの衣装を抱えて来室したところだった。プランターに視線を留め、嬉しそうに破顔する。 「かわいらしい色ですね、太陽みたいだ」 「きれいでしょう、グローリア」 「あ、…その名前、」 「ええ、グローリアよ」  名前を口にする私に、なぜだか彼は表情を落とした気がした。  当のグローリアはといえば、どこまでも澄んだ水槽色の眸に私たちを映しこんでいた。  ***  陽の光にとけていくような声だった。 『カルロッタ、』  ともすればペンを走らせる音にさえかき消されそうなそれを、けれど私が聞き逃すはずもなかった。  ペン先が動きを止める。首をめぐらせ隣を見やれば、プランターのふちに腰かけたグローリアがどうしたのと言わんばかりにこちらを窺っていた。 「ね、グローリア、…もう一度、呼んでちょうだい」 『カルロッタ』  ああ、たしかに。幻聴でも聞き間違いでもなんでもなくこの子が、グローリアが、私の名前をこぼした、カルロッタ、と。あの子と変わらない音で、春の風よりもまだ涼やかなそれで。  色づいたくちびるの紡ぐ名前が、私の耳のあるべき場所へと落ち着いていく。ずっと抜け落ちていたなにかがようやく埋められたような、そんな気分。忘れてしまっていたのに、声だけはどうしても思い出すことができなかったのに、耳にしてみればこんなにも当たり前に馴染んで、私の一部分となって。  そうだ、あの子はよく私の名前を転がしていた。  なにをそんなに口にする用事があるのかと尋ねたくなるほどカルロッタカルロッタと。なあにと振り返ってみれば、なんでもないわと口元を綻ばせて。  変な子ね、と。嬉しくないはずがなかった、だってそこにはたしかに、いとおしさにも似た感情がとかしこまれていた気がしたから。もう聞き慣れた自身の名がけれどあなたの音として発されるだけで特別な響きを持つのだと、伝える機会はついに訪れなかったけれど。 『カルロッタ、』  名前以外のなにかを口にしかけて、けれどそれ以上の言葉を取り出せないのか、ただぎゅ、と私の袖をやわく掴む。そのまっさらな甲をやさしく撫でれば、安堵したように頬をゆるめて。 「…やっぱりすきよ、あなたの声」  あの子には言えなかったそれを小さく落とす。  言葉の意味を理解しているのかいないのか、もう片方の手を重ねてきたグローリアは私の真似をしてやさしくさすった。  ***  グローリアに試作のモデルを頼む回数が増えた。 「どうかしら、今回のデザイン。裾に切り返しを入れてみたんだけど」 『んん…』  あまり気乗りしない表情を見るに、答えは決まっているようなものだけれど一応尋ねてみた。  ドレスをつまみ上げ、その場で何度か回ってみたグローリアはそうして首を横に振る。 『だめね。やっぱりこの部分が気になっちゃうわ』  自分のことのように肩を落とし、すとんとプランターのふちに腰を下ろす。申し訳なさそうな視線を向けてくるけれど、私としては出来に満足していたわけではなかったから、むしろはっきり指摘してもらえてありがたかった。  私の名前を口にしてから数日、見る間に単語を吸収したグローリアは、いまではなんの問題もなく言葉を交わすまでに成長していた。  そんなグローリアはやはりあの子と同じくファッションアートに興味を示し──とりわけ私のマジックリアリズムに関心を寄せていて、デザインに頭を悩ませる私の肩越しに覗きこんではアドバイスをしてくれることもしばしば。完成したデザインを披露すれば、相好を崩して喜ぶ。その笑顔を見たいがためにいの一番に試着してもらっているということは秘密だった。  ぷらぷらと遊ばせている足先をなんとはなしに見つめる。  爪までかわいらしいことをはじめて知った。あの子と随分と長い春を過ごす中でお互い、あらかたのことは知っていると思っていたのだけれど。この子とともにすることで改めて発見するばかりの日々を送っていた。  たとえば照れ隠しに果実のような舌をぺろりと覗かせる癖があることを。たとえば首筋に連なったほくろがあるということを。そうして今日は、足の爪が子供のそれのような整い方だということを。  一度は永遠に失ったかと思ったあの子をこうしてまた知ることができるのもこの子のおかげだった。あの子とうりふたつのこの子をどうしていとおしく思わないでいられようか、あの子のことを思い出させてくれるこの子をどうしてあいさずにいられようか。  足は依然、床から距離を置いたまま、今度は交互に揺らして。裾がひらめく、切り返し部分はやはり窮屈そうにこすれていて。  ふと。思い立って、グローリアのふくらはぎを掴む。  突然のことだからか、それともふれたことのない部位だったからか、びくりと震えたグローリアにちょっとじっとしていてちょうだいと断りを入れ、もう片方の手で布地の異なるそこをつまみ、び、と勢いよく引っ張った。仮縫いしていただけの布は簡単に裂け、膝上までが覗くスリットが生まれる。  不格好な箇所をハサミで慎重に裁ち、不思議そうに視線を向けてきていたグローリアに立ち上がるよう促す。 「もう一度回ってみてくれる?」  こくりと頷いたグローリアはくるりと時計回り、次は逆回転、そうしてまた最初のように回って。ひらりと軽やかにはためく裾。  こちらに向き直った表情が得意満面なそれに変わる。 『これならまとわりつくことも、スカートの内に湿気がこもることもなさそうよ』 「つまり製作に回してもいいってことね」 『ええ、そういうこと!』  ようやく下りたゴーサインに知らず安堵の息をつく。実は何日か考えあぐねていたデザインだったのだけれど、グローリアの協力のおかげでなんとか突破口を見いだせた。  再び座ったグローリアの左足を取り、スリットの深さを目測する。ありがとうと率直な感謝を述べれば、お役に立ててよかったわとの声が降ってくる。 「あなたのおかげで助かったわ、本当に」  感謝をもう一度、くちびるにこめ足先にふれさせれば、グローリアの身体が跳ねる。  さすがにやりすぎただろうかとおそるおそる見上げてみれば、白磁に似た頬を朱に染めたグローリアが口元を指で押さえ恨めしそうにじとり、眸を据えた。 『カルロッタってば…、だめよ、だれにでもこんなことしちゃ』 「するわけないでしょう、あなた以外に」  至極真面目に告げればさらに色を深め、ばか、とそっぽを向く。これもはじめて知ったこと。  最後に膝頭にひとつくちづけを送り、足を解放する。これ以上ふれていると恥ずかしさを極めたグローリアに蹴られかねないもの。  ゆでだこのように真っ赤な顔を横目に修正案を書きこみ、スケッチブックを手にサロンへの扉を抜ける。  ちょうどそこへ、なにか用件があるのかこちらへと向かっていた例の彼が、私を見とめた途端、表情を輝かせた。 「あ! その顔はもしや、仕上がったんですね、先生!」 「ええ、ようやくオッケーが出たのよ」  受け取ったスケッチブックをめくり感嘆の声を洩らす彼にそう返せば、ふいに顔を上げ、訝しそうに首を傾げる。 「オッケーが出た、って、だれの、」 「もちろんグローリアに決まってるじゃない」  当然の答えを口にしただけなのに、彼はといえばますます眉をひそめるばかりだった。  *** 『おねがいがあるの』  天窓から降り注ぐ陽光をたっぷり浴びた後。いつもの通りプランターのふちに腰かけたグローリアは少しばかりの甘えを声ににじませた。  この子からのお願いははじめてだ。あの子はなにかあれば両手を合わせ小首を傾げ、おねがい、と口にしていたものだから─そのひとつひとつはかわいらしいものであったのだけれど─もう慣れたものだった。  くる、と椅子を回転させ、視線を重ねる。 「一応きいてあげるわ、なにかしら」  それでもちょっと意地悪したくなって、わざとそっけなく促した。  突然見つめられたことに動揺したのか、あの、と口ごもってしまう。その頬に手を添え、そ、と上向かせ。わずかに潤んだ水槽色の眸が私をとかしこむ、そうするともういじめられなくなってしまって。 『あの、ね、私。…デザインしたいものが、あるの』  まぶたを閉じて、開いて。確固たる決意を宿した水槽色は、あの子と同じそれだった。  いずれ言い出すだろうとは思っていた。グローリアが私のアートに向ける視線はひたむきで、どこか憧憬がこもっていて。それも当然だ、だってこの子はあの子であり、あの子はこの子であるのだから。自身のアートに心血をそそいでこそファッションアーティストなのだから。  否定する気も奪うつもりもない、ただ頃合いを見計らっていた、この子がえがきたい衝動に駆られるそのときを、待っていた。  引き出しから少しくたびれたスケッチブックを取り出し、いまだ縮こまっているグローリアに手渡す。おずおずと受け取り、中身を確認し再度向けてきた眸は、喜びと活力にあふれているように見えた。 『これ…!』 「あなたのものよ、グローリア」  それはあの子の魂とも呼べるもの、だった。  あの子が夕陽とともにとけた後、おぼつかない足取りでアメリカンウォーターフロントに構えるサロンを訪ねてみれば、あれだけ大勢いたアールヌーヴォーのモデルたちはだれひとりとして見当たらず。代わりにとりどりの花弁が床一面に散るばかりだった。  ──主とともにあるべき姿へとかえったのだ、と、悟るしかなかった。  いままで幾度となく言葉を交わしてきたあのだれもかれもは私たちと同じものではなかったのだと、思い知るしか、なかった。  ずきりずきりと痛む頭を抱えなんとかあの子の自室にたどり着き、そうして見つけたのがいま手放したスケッチブック。それだけが唯一、グローリア・デ・モードというアーティストがたしかにこの世に存在したのだという証に思えて。  グローリアのか細い指が、褪せた表紙をいとおしそうに撫でる。細められた視線にこめられているのが懐かしさかどうかはわからないけれど、お気に召してはいるのだろう。 『あのね、カルロッタ』 「なあに」 『─…私、ね、あなたの服をデザインしたいの』  持ちかけられたお願いも予想の範疇。だってあの子も言っていた、いつかカルロッタにアールヌーヴォー調の衣装を着てほしいわ、と。  機嫌を窺うように見上げてくるグローリアの頬を、今度は両手で包みこんだ。陽だまりよりもまだあたたかな体温がつたってくる。 「それなら。私にも、あなたの服をデザインさせてちょうだい、グローリア」  私の条件にぱちりと、水槽色の眸をまたたかせたグローリアは、けれど次の瞬間にはその色を淡く揺らめかせた。 『ええ。…作ってちょうだい、私のために』  こつん、どちらからともなく寄せた額を合わせる。いままでにない距離がどこかおかしくて、ふたりしてくすくすと笑みをこぼした。  ***  室内に響くのは天窓をひどく打ちつける雨音と、スケッチブックを走るペンの音と、私のゆるやかな呼吸音ばかり。  ちらと視線を持ち上げれば、ちょうどよくこちらを向いた眸とかち合う。どうやら考えていることは同じようで、見つめ合いながらほぼ同時に懐からメジャーを取り出した。 『先に私よ』 「いいえ、私からよ」  プランターのふちから腰を上げたグローリアは、気が早くも勝ち誇った笑みを浮かべながらひたりひたり、少しずつ距離を詰めてくる。私も立ち上がり、詰め寄られる分だけ後退して。  焦れたのか、がばりと勢いよく突っ込んできた身体を難なく避け、とん、と背中を押す。勢いづきすぎてしまったようで、あっけなく体勢を崩したグローリアはソファに一直線。その背にやんわりと覆い被されば、まるで花弁のように軽い身体は簡単に縫い止められてくれた。 『ちょっと! 後ろからなんて卑怯よ!』 「先に仕掛けてきたのはあなたよ、文句を言われる筋合いはないわ」  じたばたともがく両足にまたがり、大人しくなさい、と耳元に落とす。身を震わせたグローリアは途端に抵抗をゆるめると、はい、だなんて、拍子抜けするほど素直に。  咎められてしまわないよう声を殺した笑みを浮かべつつ、薄桃色のブラウスをつとずり上げる。  まっさらな肌が飛びこんできて一瞬、目がくらんだ。頭を振って逃がし、もう少しだけ引き上げて。  グローリアの呼吸は聴こえない。  思えばこの子は──そしてあの子も、呼吸の浅い子だった。  たとえ耳を澄ましていてもその息づかいが届くことはなく、いまだってそう、雨音にかき消されているのか、自身の抑えた呼吸ばかりが耳につく。  ぐ、と。我知らず躊躇いを見せる親指で、ふれる。力をこめればその分、たしかな弾力を持って押し返してきて。そのまま背中のくぼみを上へとたどれば、ふ、と洩れる吐息。はじめてこぼれた甘い響きに、自身の背筋を痺れが駆けのぼっていく。思考の自由を根こそぎ奪われていくような感覚もまた、はじめてで。  高鳴る鼓動を、呼吸ふたつほどでなんとか落ち着かせる。  メジャーを持ち直し、お腹側に手を回しまずはウエストから。 「ほら、いつまでも寝てないで」  足をするりと抜いたグローリアが上体を起こし、真正面に向き直ってきた。ほつれた前髪の隙間からちろりと覗いた水槽色の底が見えなくてまた、心臓が跳ねる。  ブラウスのボタンを上からひとつ、もうひとつ、外していく指が震えているように見えるのは気のせいか。随分と時間をかけて外し終えたブラウスを腕から落とす。ぱさり、床に投げ出されたその音は雨にとけた。  またたきをひとつ、その間も果ての窺えない水槽色は私をとかしこむ。  あんまりにもまっすぐな眸からふいに逃げ出したくなった、だって私の心の内まで見透かされている気がしたから。柔肌をさらしているのはこの子の方であるはずなのに、まるで私こそ剥き出しになってしまっているような頼りなさに襲われてしまって。 『はやく』  しんと濡れた声が促すのは一体なんのことなのか、深く考えてはいけない気がした。  息をつき、グローリアを抱きしめるように両腕を回せば否応なしに身体の距離が縮まって。花の香に似たにおいが鼻をくすぐる、視界がくらりと歪む、なにもかもを放り出しただにおいに沈みたい衝動が喉元を締めつける、見えない腕が私を抱えこみ、ああ、逃げ場を失ったのは私なのだと、そう。  ともすれば浸ってしまいそうにもなる幻覚をぐ、と飲み下し、トップ、アンダーと事務的に記録して必要なデータを揃えていく。 『ねえ、カルロッタ、』  そうして足首まで測り終えたと同時、名前を紡いだグローリアのか細い手がつと伸びてきた。  肩を素通りしていった指が背中のファスナーを探り当て、じ、と。立てる音はぜんぶ、雨がさらっていく。太陽色の髪が視界いっぱいでひらひらと揺れ、軽くふれ合った首筋からは感じたことのない熱がふたりの境界をじわりじわりと曖昧にしていく。  いっそこのままとけていってしまえばいいとさえ──うるさく鳴り響く心臓もくちびるからだらしなく洩れる乱れた呼吸もなにもかもグローリアに分け与えることができればと、いつも、いつだって、願っていた。 『大人しくしててちょうだい、ね』  どこかで聞いた覚えのある言葉にけれど素直に従えるほどの理性はもう、残っていなくて。  戻っていこうとする手首を強引にとらえ、そのくちびるに自身のそれを重ねた。グローリアのくちびるはあまく、あまく、まるで花の蜜みたいに。自身が花に誘われる蝶になったような錯覚に囚われるももう後戻りできるはずがなくて。  雨はまだ、降り続いている。  ***  だってそんなこと、私にとっては些末な問題だったから。 「やっぱりおかしいですよ、先生!」 「…おかしい、って、なにが」  苦しそうに眉を寄せた彼はさらに詰め寄ってくる。なにをそんなに躍起になっているのか、彼がなにを訴えているのかがまるで理解できない。  首を傾げる私に業を煮やしたのか、普段温厚なはずの彼は語気を強めた。 「だって異常な速さで成長してるんですよ、あの花! 絶対普通じゃありません! それにあれが芽をつけてから先生、ひとりごとばかりだし、花が服を着れるはずもないのに見せたり被せたり、なんていうか、その…」 「私も、おかしい?」  単刀直入な問いかけにぐ、と押し黙ってしまうのはきっとやさしさ。そんな気遣い、必要ないのに。だって自分でもわかっていたから、ここ一ヶ月──つまりグローリアとともに日々を過ごした私はどこか狂信的で、盲目的であるということくらい。  ただ一心にグローリアを求めていた、それ以外のものはなにひとつだっていらなかった、グローリアさえいてくれればよかった。あの日みたいに突然消えてしまわないのなら、私のそばでずっと笑っていてくれるのなら、なにものであろうと関係ない。  くちびるを噛みしめていた彼は、けれど決意したように顔を上げる。ぞくりと、嫌な予感が背筋を這う。 「燃やしましょう、花を」 「…いま、なにを、」 「僕だけじゃありません、みんな心配してるんです、ですから、」  冗談を言っているような雰囲気でないことくらいはわかる、けれど彼が本気でそう思っているだなんて信じたくなくて。  ふと見つめた彼の手にはマッチ箱。本気、だ。本気で彼は、彼らは、私からグローリアを引き離そうとしている。  腕の内をすり抜けていく花弁を、さみしさなんて一切含んでいなかった微笑みを、山際に消え行く夕陽のきらめきを──あの日の光景すべてがフラッシュバックして一瞬、息が止まる、速度を上げた胸をぎゅうと押さえ荒い呼吸をなんとか整えたくてまたたきをひとつだってあの子は私のそばを離れたりなんてしないしあの子をもう、 「──奪わせたりなんてしない、もう、だれにも」 「先生!」  彼が私に手を伸ばすよりも先に自室にこもり、鍵をかける。扉を叩く音、叫ぶ声、がたがたと揺れて、ああだれかを呼びにいったのかもしれない、いずれにせよもうあまり時間はない。  息を、ひとつ。  振り返れば、プランターのふちにはいつものようにグローリアが座っていた。あの子と同じ、目に鮮やかなドレスを身にまとって。あの子と同じ、よく澄んだ水槽色の眸を持ち上げて。 『カルロッタ』  あの子と同じ、春の空気にとけていきそうなほどやわらかな声が、私の名前を落とす。手には、あの子が愛用していたスケッチブック。  ひたりと距離を詰めれば、さみしそうな微笑みが私を見上げた。 『…完成したの。私がえがいた、あなたへのデザイン』  それはどこか、別れの挨拶にさえ聞こえた。  軽やかに立ち上がったグローリアは、作業机にスケッチブックを置くとくるり、振り返ったその表情のどこにも、さっきまでのさみしさは窺えなくて。 『あの、ね。“私”にはやり残したことがふたつ、あったのよ』  人差し指がぴん、と天井を指す。  ひとつ目は私の服をデザインしたかった、ということ。わかち合いの心を教えてもらった自分の手がけるマジックリアリズムとアールヌーヴォーが融合した衣装を、だれよりも私に着てほしかったのだと。  続いて中指が立つ、ふたつ目は、と。 『あなたに、…カルロッタに、ふれたかったの』  いつも、いつだって、あの子にふれたいと切望していたのは私だけだと思っていた。同僚にいだくべきではない想いを抱えていたのは私だけだと、そう、心を閉じこめてきたのに。  かすかに震える指先がつと伸びてくる。おそるおそる頬にふれて、包んで、引き寄せられて。けれどあの雨の夜のようにくちびるが重なることはなかった。呼気が重なるほど近くにあるくちびるが無理に笑みをかたちづくる。 『このふたつだけが心残りで。だからあの日、“私”が生まれてしまったの』  “私”という種が残されてしまったの。この子は語る、自分はあの子からこぼれ落ちた後悔なのだ、と。  ぬくもりがはがれていく。ひとつ、ひとつと距離を置くグローリアはどこか満足そうにも見えて。 『だけどね、ぜんぶぜんぶ、あなたが拾ってくれた。“私”の夢を、願いを、あなたが叶えてくれた』  ざあ、と。勝手に開いた窓から風が吹きこむ。もう夏真っ盛りだというのにその風は、季節を間違えたかのように涼やかで。 『だからもう、─…春に、かえらなくちゃ』  斜めに差しこんだ陽光が、けれどグローリアの影だけ伸ばすことなくその身をとかそうとする。カルロッタ、と。呼び声が、私とグローリアの間にぽつりと落ちて、 『──私は、しあわせだったわ』  ──ただただ、がむしゃらだった。  ぶわりと私たちを取り巻くように舞うとりどりの花弁をかき分け手を伸ばし、たしかにふれたそれを思いきり掴んで引き寄せる。驚きに目を丸めたグローリアも気にせず腕の内にいざないぎゅうと力の限り抱きしめた。  目を刺す極彩色の花弁たちが風にさらわれていく。 「…あなたばかりしあわせになんて、させないわ」  あふれんばかりのこの想いを伝えて、ふれて、熱を交わして、そうしていつまでも一緒に、と。願っていたくせにけれど自分の心を明かすことにひどく臆病だった春の日の私は一度、あの子を失ってしまった。  だからもう、同じ過ちを犯したくはなかった。もう二度と、この子を離したくはなかった。 「私のしあわせはね、あなたの隣にしかないの。あなたのそばでしか、しあわせを感じられないの」  あるいは私の願いは、のろいと大差ないのかもしれない。春に生きるこの子を無理に縛りつけてしまうことはひとりよがりでしかないのかもしれない。それでもこの子がもしも、私とともにありたいと願っているのなら。そうしてこの子を寵愛している春が、そんなわがままを見逃してくれるのなら。私はこの子のそばにいたい。この子とずっと、めぐる季節を生きていきたい。  風が勢いを増す、先生と呼ぶ声がどこか遠くから響く、私たちの横を春色の花弁たちが急ぎ足ですり抜けていく。 「──私のそばをはなれないでいて、グローリア」  寄り添った頬につと、私のものではない雫が流れた気が、して、 「──ええ。もう、はなれないわ、カルロッタ」  春風が、やんだ。 「先生!」  盛大な音を立てて扉をこじ開けたモデルたちが室内に押し入る。  焦燥の色をにじませた彼らは、けれど床に座りこむ私の姿に一様に目を丸めた。視線は私の膝の上。驚きに思わず声を上げそうになったひとりを、けれど口元に人差し指を運ぶことで制す。  この反応を見るにどうやら彼らにも、この子がはっきりと見えているようだ。ようやく花の呪縛から解き放たれたのかそれとも束の間、春が与えてくれた夢なのか。答えは、この子が目覚めてからゆっくり尋ねるとしよう。 「みんなからのお小言はあとでたくさん聞くから。だから、いまはゆっくり、寝かせてあげてちょうだい」  つ、と。視線を落として。  私の膝の上では、春に取り残された太陽色の彼女が、子供みたいにあどけない寝息を立てていた。 (けれどこれから先の季節に続く夢でもあって、)
 どうかふたりが、めぐる季節をともに生きることができますように。  2018.7.9