きっと、あい、でした。

 月明かりを浴びるのははじめてだった。  春とともに生きていたころは、陽の光がないとねむたくて仕方がなかったから。日中にいくら陽光を受け止めていても、夕方になるともうまぶたが重たくなって、太陽が月と交代するよりも先に横になるのが常。  腕を伸ばし、月光に照らされ淡く光る藤色の一房を指先でさらう。  ──だから、カルロッタの寝顔がこんなにもあどけないだなんてちっとも知らなかった。  細やかなまつげの影を、薄く開いたやわらかなくちびるを、ゆるやかに船を漕ぐ様子を。はじめて目にするカルロッタの新鮮な姿ひとつひとつを記憶に閉じこめていく。  ほんの一ヶ月前は、眠るカルロッタを見上げる夜がくるなんて思ってもいなかった。  あの日、つまり春の祝祭が終わったあのとき。春と一緒に眠りにつくはずだった、だって人ではない私はその季節でしか生きられなかったから。  すべてに満足していたはずだった、自分の生き様をファッションアートというかたちで体現して、互いを高め合えるライバルたちに出逢えて、ひとりきりではきっと見ることが叶わなかったたくさんの色に囲まれて。  だけど唯一、視線の先で眸を閉ざすカルロッタのことだけが、心残りで。  夜が更けるのも構わず語り合って、流れる季節をともに過ごして、そうして許されるなら、きっとあたたかいであろうその身体に少しだけふれて。そんな光景を何度も思い描いては浮かぶ名前の知れない感情を、心にそっと押しこめてきた。春以外を謳歌する未来なんて訪れるはずもないから。人のかたちを模倣しただけにすぎない花が散らずにいられるわけがないから。  だというのに、諦めてきたそれらが結晶となり、この世界に残ってしまった。後悔を詰めこんだ種が、覚めることのない眠りについたはずの私の意識を揺り起こす。  種を──“あの子”を通して、見ることのなかった未来を覗くことができた。  私を失い憔悴する姿を、種の存在にぽろぽろこぼれた涙を、いとおしさのこもった眸を、頬を包みこむ指を、熱をはらんだくちびるを。知りたかったこともやり残したこともぜんぶぜんぶ、あの子を通じて叶っていって。  そうしてすべてをやり遂げたあの子さえも春がさらっていこうとしたそのとき、繋ぎ止めてくれたのがカルロッタで。  はなれないでいて、と、カルロッタは言った。私の隣にしかしあわせはないのだと、きつく抱きしめてくれた。じわりと、ひとつの感情が胸を占める、だって私もそうだった、離れたくなんてなかった、この人の隣でしあわせを紡いでいきたかった、名前を呼んで、微笑んで、それだけでいい、ただ、カルロッタのそばにいたかった。  はなれないわ、と。あの子が涙を流した刹那。  春が、“私”を手離した。  前髪を梳いてそのまま、ほんのり染まった頬を撫でる。指先からつたう体温を“私”が感じたのははじめて。しとしとと染みこんでくるようなぬくもりに、ともすれば泣いてしまいそうになって。私の中にかえってきたあの子が、満足そうに笑った気がして。  ──ああ、ようやくわかった、カルロッタへ向かうこの感情の名前は、 「…ん、ぅ、」  ふるり、まつげが揺れる。ちいさく洩れた声が落ちてきて、夜色の眸がうっすら覗いた。たしかめるみたいにまたたきをひとつ、ふたつ、グローリア、と。懐かしい音が耳に馴染んでいく。 「また、泣いてる」  目尻を流れる雫を拭い去るカルロッタこそ涙を光らせているのだけど、指摘しないでおいてあげた。頬に添えたままの指に涙がとけていく。つ、と。手のひらにすり寄ってきたカルロッタがくしゃりと笑う。  きっとこれからまだ見ぬ夏を、秋を、冬を、そうして私を慈しんでくれていた春を迎えるのだろう、カルロッタのそばで。希望ではなくたしかな予感をカルロッタも感じている、そんな気がして。 「おはよう、グローリア」 「─…おはよう、カルロッタ」  月明かりが、私たちふたりの影を淡くとかしていった。 (…あ、グローリア、まだ動かないで) (ええ、私ももう少しこのままでいたいわ) (そう、じゃなくて。いえ私もそうしていたいんだけど、その、) (…もしかしてカルロッタ、足、しびれた?) (ちょっ、や、だからさわらないで、って、こら、)
 過ぎゆく季節を笑顔で、ふたりで、  2018.7.10