あなたのなにもかもがいつの間にか私のなにもかもへと、

 アトリエの西側に広がる庭のさらに奥、樫の木の下のベンチは、モデルたちも知らない絶好の作業場。  葉のさざめきと陽のきらめきだけが満ちるこの空間でスケッチブックと向き合っていれば自然、アイディアが浮かんでくる──はずだった、そう、普段であれば。だというのに、頭を捻ろうとペンを握ろうと陽に透かそうと、アイディアのアの字ものぼってこなくて。  一週間もこの状態が続いているせいで、白紙のページももはや見慣れてしまった。原因はただひとつ、先日返したあの子への手紙だ。  四ヶ月。もう四ヶ月も、グローリアと会っていない。細々と手紙のやり取りは続けていたものの、私もあの子も多忙を極めているため直接顔を合わせる機会をつくれずにいた。  そうしてつい十日ほど前に届いた手紙には、ようやくまとまった休みが取れそうだからこちらに足を運んでもいいかと。窺うような文面ではあるけれど、そこにはどこか切実ささえ含まれていて。  本音を言えば私だって会いたい。春のように涼やかな声を耳に落として陽だまりに似た体温をこの腕の内に収めて花の香を思いきり吸いこみたいに決まっている、けれど。まともに身体を休めていないことは、彼女のサロンに送った使いのモデルから伝え聞いているし、寝食を惜しんで作業に精を出しているのは想像に難くないから。  そんな中、やっと訪れた休息だというのに、私のために使わせてしまうのは申し訳ないという気持ちが半分、もう半分はあの子の体調を慮ってのこと。  こっちに顔を出さなくていいからきちんと休みなさい、と。きっと無理を押してでも会いに来てしまうだろうから少々きつい口調で。  言い過ぎてしまっただろうかと、投函してから悔やんでしまっていた。もう少し言い様があったはずなのに、まるであの子の顔なんて見たくないとでも言わんばかりに。  いつもなら三日と経たず返ってきていたはずのグローリアからの返事はまだない。きっと傷つけてしまったのだろうことは明白だった。いっそなにもかも放り出して船に飛び乗ってしまおうかとさえ考えたけれど、そんなことが叶うはずもなく。かといって仕事が順調に運ぶはずもなく。  深い深いため息がひとつ、ペンの末端でこめかみをほぐす。意識して抑えていないといくつも息が洩れ、目の前のまっさらなページばかりがまぶしくて。  ──はらり、と。白のただなかに落ちた太陽色の花弁には、見覚えがあった。  反射的に木を仰ぐ。緑が生い茂るそこからこぼれるはずのない色がひとつまたひとつと降っては、ページを彩っていく。  あの子ったら。呆れる内心とは裏腹に、口の端にのぼるのは笑みばかり。この場所の存在を知っているのは私と、それからこの色の持ち主のふたりきりだから。 「─…降りてらっしゃい、グローリア」  がさがさ、動揺したように葉が揺らめく。  ざあと吹き抜けた風がとりどりの色の花弁を乗せ隣で渦を巻き、私の前髪を浮かせて。そうしてまたたきひとつ分の間に、ばつが悪そうに肩を竦めたグローリアがベンチに腰を下ろしていた。人の身に姿を移すその瞬間は何度見ても美しいと感じてしまう。それを彼女に伝えたところで、私にとってはあくびと変わらないわよと返されるだけなのだけれど。  スケッチブックに降り積もったままの花弁と同じ色の髪が陽光を受けてきらめく。久しぶりに目にしたそれに、またたきをもうひとつ。 「…ごめんなさい」 「どうして謝るのよ」  ともすれば叱られた子供みたいに視線をさまよわせ、謝罪の言葉を口にする彼女の太陽色をやわらかく撫でる。触れる直前、びくりと震えた身体は拒んでいる風にも見えた。 「だって、…会いにきちゃったから」  悪いのはこうして謝らせている私の方だというのに、指をきゅ、と握り合わせてしまって。  募る罪悪感のままに頭を引き寄せ、その華奢な身体を抱き留める。彼女の体温は記憶していたものよりもなおあたたかく、じんわり、胸を中心に染みこんでいくようで。 「私こそごめんなさい、あんなきつい言い方してしまって」  グローリアの声が、色が、ぬくもりが、私のなかのあるべき場所へと帰っていく感覚。久方ぶりに覚えた安堵は間違いなく、彼女が運んできてくれたもので。ああやっぱり、私にはこの子が必要なのだと。いつの間にかこんなにも私の一部になってしまっていたのだと。改めて得たのはそんな実感。 「私もね、あなたに会いたかったの、とても」  素直な心を吐露すれば、やがてぎゅ、と背中にしがみついてきて、私もよ、なんて。 「うんと、うんと会いたかったんだから。なのにカルロッタときたら、」 「ええ、ごめんなさい」 「反省してちょうだい」 「そうするわ。ティータイムのあとにね」  ようやくいつもの調子を取り戻してきたグローリアに笑みをこぼしつつ、ふたりして立ち上がる。まだ片付けなければならない案件はいくつか残っているけれど、少しばかりの余暇くらい許されるはず。それにこの子との時間を過ごしたあとはきっと、いつもより仕事が捗るだろうから。  まるで自分の庭のように弾んだ足取りで先を行くグローリアがつと手を差し出して。その指に自身のそれを絡ませれば、そうすることが自然であるみたいに体温が混ざり合った。 (あなたのぬくもりさえ、私には必要みたい)
 華がいないと本調子になれないといい。  2018.7.23