想い、想われ、

「…なによ。いないならいないって、先に言ってくれればいいのに」  人の気配がない部屋に私の文句だけがとけていく。言いがかりだとしても、それでもこぼさずにはいられなかった。  あなたに見てほしい新作があるの、私用で近くまで来たからそのついでに、表に出てこないあなたの生存確認でもしてあげようと思って──理由をいくつも抱えて扉を叩いたのに、待てど暮らせど応答は無し。  そっと室内にお邪魔し─この家はいつも鍵がかかっていない。家主曰く、「私が心を許した者しか踏み入ることのできない魔法をかけているのよ」とのことだけど。彼女はいつだって冗談めかして微笑むばかりだ─サロンに温室に寝室まで覗いてようやく、主の不在を悟った。  誰もいないのなら、落ちる肩を取り繕う必要もない。張っていた気が抜けるまま、リビングのソファに腰を下ろした。  いつから付いてきていたのだろうか、美しい翅をひらめかせた蝶がソファの背に止まる。 「あら、あなたもカルロッタに会いに来たのかしら。残念ながら留守みたいよ」  戯れに声をかけてみたって、蝶は言葉を発しない、それも当然だけど。  カルロッタと身体を重ねてから、もう二つも季節が移ろった。  はじめて熱を感じたのはこのソファでのこと。きっと互いにお酒の飲みすぎだったのだと思う。どういう脈絡だったか、先にくちづけた私に、彼女は拒絶でも冗談でもなくただくちびるを返してきたのだから。  それからはお酒を口にするたび、ここで熱を交わすようになった。身体をなぞる指先も、肌をくすぐる髪も、耳元で落とされた吐息もぜんぶぜんぶ、アルコールのせいにした。  苦しそうに何度も私の名前をこぼすカルロッタはだけど肝心の想いは吐き出してくれなくて。私たちの関係に名前をつけてはくれなくて。 「…つれない人よね。せっかく恋人が会いに来たっていうのに、」  こいびと、なんて。自分で音にしたそれにじわりと涙がにじんでいく。  友人と呼ぶには距離を詰めすぎていて、だけど恋人だとは明言してもらえなくて。ただ身体を貪り合うだけの関係をずるずると続けてしまっている私たちは、私は、彼女にとって一体なんなのだろう、彼女は一体、どう思っているのだろうか、 「─…私は、すき、なのに、カルロッタのこと」  ぽすり、ソファの背に鼻をすり寄せる。変わらず藤色の翅を震わせる蝶を視界に収めたのを最後に眸を閉ざし、もう慣れた香りを存分に吸いこんで、ここにはいない彼女を浮かべ。 「………ばか、ほんとうに、ばかよね」  行儀が悪いとわかっていながらいまだけはと、ごろりとソファに身体を横たえて、 「──本当、ばかね、私たち」 「…え、」  降ってきた声にまたたく。覚えがある、なんて程度じゃない。現に声の持ち主は、ソファの背に頬杖を突き、こちらを見下ろしてきていた。 「…っ、えっ、カルロッ、ど、どうし、いつからいたのよ!」 「いないならいないって言ってほしい、ってところからかしら」 「ねえそれつまり最初から、」  慌てて上体を起こし、逸る心のまま継ごうとする私の言葉を留めるみたいにくちびるに寄せられる人差し指。気勢を削がれ、ぐ、と声を呑みこむ。  指のその先を恐る恐るたどれば、困ったように微笑んだカルロッタと視線が重なった。夜の帳に似た深い眸に、私はいつも、取りこまれてしまう。 「…ごめんなさいね、グローリア」  そうして彼女は静かに謝罪を乗せる。  あなたに甘えていたの、言葉にするのがこわかったの、だって私はあなたとは違うから──ぽろぽろと、ともすればいままで見えなかった彼女の心がこぼれていくようで。 「それってどういう、」 「でも。逆にあなたを傷つけてしまっていたのね」  人差し指が頬を滑り、髪をかき分け耳を掠め、そのまま抱きしめられる。ごめんなさい。もう一度落ちてきた声はしっとりと濡れているみたいに。 「─…すきよ、グローリア。あなたが想ってくれている以上に、あなたのことがすきなの」  ようやく耳にした言葉は、私の一番聞きたかった言葉。じわりと、胸の内に浸透していく好意に私は、──私は、なんだか悔しくなってきて。  ぐいと胸を押し返し距離を空けると、カルロッタの夜色の眸が驚いたようにまたたいた。 「私が想っている以上に、ですって?」  私がどれほど長い間想っていたかも、どれだけ心を痛めてきたかも知らないくせに、よくそんな勝手なことが言えるものだ。  気圧されたのか、返答さえ出来ずにいる彼女の後頭部を引き寄せ、強引にくちびるを奪う。いままで交わしてきたどのくちづけよりも長く、深く、呼吸する間も与えずに。  ぐ、と。カルロッタの喉が鳴る。わずかな隙間から、グローリア、と。彼女だけが紡ぐことのできる音にまた胸がぎゅうと締めつけられていく、今度はたしかな喜びで。  カルロッタの言う『違い』がなにを指しているのかはわからない。もしかすると彼女にとって、想いを口にすることを躊躇うほど重要なことなのかもしれない。だけど、だけども、いまはそんなことどうでもいい、だって、 「教えてあげるわ。私がどれだけ、あなたのことがすきなのか」  藤色の蝶はいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。 (だってようやく、あなたの心が見えたんだから)
 なにものであってもあなたがすきなの。  2018.10.6