あいしたのだと知るにはじゅうぶんでした。
いつの間に刺されたのだろうかと、ねぼけた頭でひとしきり首を傾げていたところだった。
「どうしたの、カルロッタ」
ふわり、振り向いた顔とまみえるのは昨夜ぶり。私より随分と早く目を覚ましていたのに、その表情には眠気の影さえ窺えなくて。同じ夜更けに眠りについたはずなのに、なんて呟くのは心の中でだけ。寝覚めのよさに対する羨ましさ半分、なにも私が起きる前にベッドを抜け出さなくてもいいのにという恨めしさ半分。
「おはようが先じゃなくって?」
「あら、おはよう、カルロッタ」
「おはよう、グローリア」
ようやく済ませた朝の挨拶とともにありがとうも添えて、差し出されたマグカップを受け取る。どうやらココアを淹れてくれたらしく、甘やかなにおいが寝起きの鼻先をくすぐっていく。
マグカップを両手で包み、小さな暖を身体中に行き渡らせる。春の足音がすぐそこまで迫っているとはいえ、寒さはまだ衰える気配を見せなかった。ココアにとけた心遣いをたしかめるべく、まずはひとくち。やけどしないほどの熱さがのどをつたい落ちていく。私が猫舌だと知ってからというもの、ココアはいつもこの温度。
心地よいぬくもりに、まだ片足を浸けたままだった眠気が忍び寄ってくる。またねちゃうの、と。向かいの椅子に腰かけたグローリアが同じくマグカップを両の手の内に収め、不満をその頬に乗せて語尾を上げる。
「なかなか寝かせてくれなかったのはどこの誰かしら」
「さあ、誰かしら」
「今朝ちゃんと鏡は見たの?」
「見ない朝なんてあるわけないじゃない、私に限って」
寝不足の元凶はそううそぶき、うふふ、と。くしゃり、眸を細め肩を竦ませ、子供のような笑みをひとつ。それだけでこの眠気も色濃く残る倦怠感もなにもかも許せてしまうのだから不思議だ。彼女のかわいらしい笑顔が見られたのだからいいかと、いまだまどろみから抜け出せていない頭は簡単にほだされてしまう。こんなことだから彼女が泊まりに来るときに毎回、睡眠不足に悩まされているというのに。私は大概、学習能力というものがないのだろう。
「それで、」
「ん」
「どうしてさっき、じっと見つめてたの」
あんなに情熱的に見つめられたらとけちゃうわ、なんて付け加えて。
ああそういえばと数分前の疑問を思い出しふと、伸ばした右手の行き先はグローリアの首筋。耳からまっすぐ下へと視線を沿わせたそこに、ぽつりぽつり、まだらな紅が咲いていたのだ。不規則にならんだそれらは、まっさらな彼女の肌にはひどく不釣合いに映る。昨日まではたしかなかったはずなのに、もしかして眠っている間に虫にでも刺されたのだろうか。
痕をなぞって、こんなにきれいな肌をしているのにかわいそうにと、同情をこめて見つめて。
「もしかしてカルロッタ、なにも覚えてないの?」
降ってきた言葉に首を持ち上げれば、ふてくされた視線とぶつかった。一体なにをと、働かない頭でなんとか記憶を掘り起こそうとしている私に向かって伸ばされる手。マグカップにあたためられた指先がくちびるに触れて。
ぶわり、と。昨夜の光景が突然、巻き戻される。眼下にさらされた首筋。月光に照らされたそこがともすればおそろしいほどまっさらで。
──いろを、つけたくなった、ただそれだけだった
「思い出してくれた?」
よほど表情に出ていたのだろう、くちびるを右から左へなぞっていった指先が離れて、くすり、彼女がどこかいたずらな笑みを浮かべて。
ああなんてこと、私としたことがこんなにも目立つ場所に残してしまうなんて。そもそも普段なら見える見えないに関わらず痕なんてつけたりしないのに。少し、いいえ結構な量のアルコールを入れたのが原因かもしれない。今朝の眠りが深かったのもそのせいか。
あーあ、と。あからさまなため息をついたグローリアは頬杖を突き、まるで咲きほこった色を見せつけるように首を反らせて明後日の方角を見る。
「これじゃあお出かけできないわ。こんなにいいお天気なのに」
「あの、ごめんなさいグローリア、私、」
「なあんて、冗談」
たまにはおうちでのんびりするのもいいわね、だなんて。ぐいとココアを飲み干した彼女はそうして立ち上がり、机をぐるりと回りこみ私の手を引き立ち上がらせる。
紅との距離が縮まってふと、視線を逸らしてしまう、だって意識してしまうと途端、羞恥に襲われてしまったから。あんなにたくさんの痕を、まさか自分がつけただなんてにわかに信じられなかったから。そんな私の心情を知ってか知らずか、うれしかったのよ、と。
「だってカルロッタったら、つけてくれたことなかったじゃない、どこにも」
さみしかったんだから。くちびるをとがらせた彼女はけれどすぐに表情を明るく転じ、つかんだままの手首をぐいぐい引っ張る。
「ちょっ、と、どこへ、」
「あなたがいま一番求めているものよ。私も付き合ってあげるから」
果たして大人しく二度寝させてもらえるのか。とうにどこかへ消えてしまった眠気に問いかけてみても、返ってくる答えは明らかで。息をひとつ、今度はせめて見えない位置に残すことにしようと、妥協案をひとり持ち出して。
机に残された私のマグカップにはまだ、ココアが残されていた。
(なによりの証に満足していたのはなにも彼女ばかりではなくて、)
週に一度のペースでカルロッタさんのおうちにお泊まりしてるグローリアさん。
2018.3.21