そうしてあなたとまた春を、

 はじまりは小さなうそだった。  実は私、お花なの──そう告げたときのカルロッタの顔はいまでも忘れられない。夜に似た眸に珍しく動揺を映して、くちびるを開いたかと思えば言葉を紡ぐ前にまた噤んで。  もう何年何十年何百年とこの姿なの、もしかするとあなたよりもこの世界に留まっているかもしれないわ、だなんて。否定をかけられないうちにうそを重ねていく。  カルロッタが人間でないということは、もうずっと前から知っていた。悠久の時を生きる美しい蝶がいるのだとロストリバーデルタでまことしやかに囁かれているそれこそ、彼女自身のことであると。  きっとこれまで途方もない時間を彷徨ってきたのだろう。私の知らない出逢いを、別れを、繰り返してきたのだろう。推し量ることは容易い、だけど簡単には想像つかない。カルロッタひとりとの別れの時を思っただけで呼吸さえままならなくなるというのに、その倍、いいえもっとたくさんの人との別離だなんて。できれば一度だって体験したくはないそれを、彼女はいくつもいくつも味わってきて。だからこそきっと、私とのあと一歩を踏み出してはくれなくて。  そ、と。重ねた手が、こわがるみたいにびくりと震える。  少しでもぬくもりを感じてほしかった。それは本音。だれにも深入りせずひとりで生きていこうとしている彼女を孤独にしたくなくて。救う、なんておこがましいけどそれでもどこかこの世界から距離を置いているようにも見える彼女が留まる理由になりたくて。だけどもうひとつは隠しきれないほどにふくらんだエゴ。彼女の一番近くで愛をそそいでいたい、そして彼女も同じ気持ちならばどうか私にも愛を、と。  だから、ね、私といてちょうだい、ずっと。  子供がついた方がまだまともなうそを果たして彼女が信じたのかどうかはわからない。はじめから見破っていたか、それとも真剣に訴える私に絆されたのか。まぶたを閉ざして、しばしの間、そうして覗いた宵闇色の眸が泣き出すみたいにくしゃり、水を張って。  花の蜜を分けてもらうのも悪くないかもしれないわね。  ようやく握り返してきた体温は、私と変わりないものだった。  ***  毎日がはじめて尽くしで、そして心躍る日々だった。  はじめて手を繋いだ日。それまでにも何度か戯れにふれてきたことはあるけど、しっかりと指を絡め合わせたのはその夜が最初。お互い恐る恐る相手の指のかたちをたしかめて、爪をなぞって、握りしめて。彼女の指は私のものより幾分すらりと長かった。  はじめてくちびるを重ねた日。ばくばくとうるさい鼓動を収めるのに必死で正直、感触なんて覚えていないけど。ゼロ距離で見たカルロッタのまつげが見惚れるほど細やかだったこと、こういうとき目は閉じるものよとどこか気恥ずかしそうに教えてくれた声が忘れられない。  はじめて熱を交わした日。私の肌をなぞるカルロッタの指先は、まるで壊れものでも扱うみたいにひどくやさしくて。ゆっくりじっくりとかされた曖昧な頭で、このまま彼女と私の境界がなくなってしまえばいいのにと、そんなことをぼんやり考えていたのを覚えている。  私だってあなたにふれたいの。そうふてくされてみせれば、最初は渋っていた彼女も夜を重ねるうちに段々とガードをゆるめはじめた。その隙に耳、首筋、鎖骨にうなじ、脇腹におへそに臀部にと、普段ならふれることのない部分に指を這わせて。わずかに眉を寄せる彼女の、だけど不快そうではない表情に気をよくしてその先へと手を伸ばせば、まだあなたには早いわと、やわく手首を掴まれてしまったけど。  有体に言えば、しあわせだった。ありふれた、ひどく陳腐な言葉だけどそれでもそれ以上に私の喜びを表す単語を知らなくて。しあわせなの、私。幾度となくそうこぼせばカルロッタも同様に眸を細めて、私もよ、と。  しあわせな日々のなかでつい、忘れてしまっていた、彼女が人ではないことを、そうして自身はどうしようもなく、人であるということを。  はじめに夜更かしがつらくなった、体力がすぐには回復しなくなった、すぐに息が切れるようになった、重力を年々苦しく感じるようになり、目元の皺がひとつひとつと増え、肌の張りが少しずつ失われていって、自慢の髪に白が混ざっていき、声が徐々に掠れて。  私の身体に確実に時が刻まれていく一方で、カルロッタはなにひとつ変わることがなかった。豊かな髪には相変わらず艶があるし、身体はみずみずしいまま、昔と同じ宵闇色をさみしそうにゆるめて、グローリア、と、変わらない音で、だけど悲しみを孕んで、 「──グローリア、」 「…なぁに、カルロッタ」  呼び止められてまぶたを、開けた。  久しぶりの光が目に滲みる。今度は一体どれだけ眠っていたのだろう、意識がはっきりしている時間の方がもう少ないかもしれない。私の名前を切なく呼んだ彼女を安心させたくて声を絞り出したけど、直後に咳きこみ逆に心配させる結果となってしまった。  私に残された時間はもう残りわずかなのだろう、わかってはいるけど、それでもまだ、縋っていたかった。  随分と昔についた、うそ。私は生涯枯れることのない花、カルロッタと時を同じくするいきもの、人ではないなにかなのだと。彼女といるうちはそう偽っていた、信じていた、信じこむことでいつか現実になりはしまいかとそんな淡い希望さえ抱いていた。だけども私ひとりが年齢を重ね、彼女ひとりが時間に取り残されて。 「…ねえ、カルロッタ、」  絶えていこうとする音をかき集め、ひとつひとつ、たしかに彼女に伝えていく。どうやら私に冬が訪れてしまったことを、少しの間だけ眠りにつくことを。たどたどしいくせにうそばかりは饒舌に、どうか彼女が最期まで騙されていてくれますようにとただそればかりを願って。 「だから、ね、─…春になったら、また、会いましょう」  私をなくした彼女が生きることをやめてしまわないように、この世界に少しでも希望を持って過ごせるように、──私のことを想って春を迎えてくれるように、と。呪いとも願いともつかないそれを、私とともにいることを選んでくれた、彼女へ。  重ねられた手を、いま持てるありったけの力で握り返す。これじゃあいつかと逆だと、思ったのはそんなこと。  ああだから、涙は再会できたときに取っておいて。そう笑ってみせれば、宵闇色の眸がまたたいて、ゆるり、目尻をとかして。 「──また花を咲かせたら一番に、私に会いにきなさいよ、グローリア」 「…ええ、きっと、」  彼女の方から約束を結んだのはこれがはじめて。なんだかはじめてをもらってばかりの人生だったわ、と、ほどけていく意識の中で、だけどじわりじわりと喜びが広がっていく。きっとまた、花が綻ぶ季節に出逢えるはずだと、ともすればそんな確信にさえ包まれるようで。  視界がゆるくとけていく、だれよりもいとおしい彼女の像がおぼろになっていく、グローリアと、縋りつく声がまたひとつ、カルロッタ、と、音になったかはわからないけどきっと、本人には届いているはず。  私が最期に感じたのは、私と同じ熱を持つか細い指、だった。 (きっと自分でさえも気付いていない涙のあとは私がぜんぶもらっていくから、)
 人間のうそを信じた蝶と、華になりたかった人間と、  2018.11.8