Synchronicity.
「そろそろ休憩されてはいかがでしょうか、お嬢」
労わりを含んだ声音に思考が引き戻される。
声に弾かれて顔を上げれば─その動作さえ久しぶりだったからか首筋がわずかに痛んだ─老齢の秘書が腰を曲げ、にこりと覗きこんできていた。
壁にかけた時計の短針は真下を指している。ここに腰を下ろしてからもう十時間も経っただなんて。だというのに目の前のスケッチブックは真っ白、机の周囲に散らばる没案。納期まであと何週間だったか、考えるだけで頭が痛い。
「残念だけど、休んでる暇はないの」
再びペンを取り、止まっていた思考を揺り動かす。
アイディアが枯渇しているわけではない、だけどどうもしっくりとくるデザインが浮かばない。なにかが足りないのに、そのなにかは恐らくパーツでも小物でもなくて、自分の中のなにかが──また堂々巡りを始めそうになったところでふと、押し留められる指。
「いま貴女に足りないものが何なのか、もうとっくにお分かりのはずですよ」
諭す調子の言葉尻が、娘でも見るような眸が、慈しみのこもったぬくもりが胸に沁みる。最初から私についてきてくれている彼はいつだって、親にも勝る愛で支えてくれていて。
そんな彼が取り出したのは一枚のチケット。
「ちょうどここに、ロストリバーデルタ行きの最終便チケットがあります」
「…一日だけ留守を頼むわ」
その微笑みからすべての意図を察し、大人しくチケットを受け取る。どれだけ隠してもきっとこの秘書には、途端に弾む心の内のなにもかもを知られてしまっているのだろうけど。
ぱきりと鳴る腰を押さえつつ手早く身支度を済ませ、秘書に見送られながらサロンを飛び出す。
暖房で温められていた肌を打つ容赦のない冷気に思わずコートの前身頃を寄せながら、あの人は寒さの厳しい奥地でちゃんと暖を取っているのだろうかと。
そうだ、仕事に追われている間ずっと、あの人のことを考えていた。あの人もこうしてスケッチブックと向き合っているのだろうかだとか、相変わらず朝は弱いのだろうかだとか、わたくしのことも少しは思い出してくれているのだろうか、だとか。
最近は特にあの人のことばかりが頭を占めていて、作業にいまいち身が入らなかったのも事実。トップアーティストと自負しているのになんという体たらく、とも思うけど、だけどそれ以上に、あの人に会いたくて。
やけに遠く感じる船着き場に到着したのは、ちょうど最終便が錨を下ろしたその瞬間。この船が折り返し、ロストリバーデルタ行きとなる。夜が近付いているからか、船客もまばらだ。
連絡もなしに扉を叩いたとき果たして、あの人はどんな反応をするのか。呆れるだろうか、それとも喜んでくれるだろうか。できれば後者であってほしいと祈りながら搭乗を待って、
「──あら、」
そ、と。耳に届いた声は、求めてやまなかったそれ。
判断するよりも先に視線を持ち上げる。タラップのちょうど真ん中、藤色の一房が混ざった前髪をなびかせるその人を見とめ、心が高鳴る。遠目にもわかるほどいっぱいに広がった表情はきっと、ついいましがた祈った反応そのもの。
半ば駆けるように降りてきた彼女はそうして目の前で足を止めると、上気させた頬を綻ばせた。
「─…どうやら私の方が一足早かったみたいね、グローリア」
名を呼ぶ声が、熱のこもった眸が、喜びをにじませた笑顔が。なにもかもが懐かしくて、いとおしくて、人目も憚らず抱きつく。コート越しの体温がじわりじわりととけ合っていく、自分の内で欠けていたなにかが満たされていく。
ぎゅうと抱き寄せられたものだから、もっと距離を縮めようと彼女のマフラーに顔をうずめる。
「わたくしもね、あなたに会いたかったの、カルロッタ!」
太陽色のマフラーはすっかり彼女のにおいに染まっていた。
(心はいつだって共鳴していたのね)
きっと考えることも、想っていることだって。
2019.1.9