けして、けっして、こたえてはいけないよ、
はじまりは声、だった。
「なあにカルロッ…」
返事をしかけて、だけどその声の主がこの場にいるはずもないことを思い出す。
だってここはアメリカンウォーターフロントにあるわたくしの仕事場。彼女はいまもきっと、ロストリバーデルタの奥地に佇むサロンでわたくしと同じように作業に打ちこんでいるだろうから。
だというのにいましがた耳元に落とされた声は紛れもなくカルロッタその人で。
「どうされたのですか、お嬢。なにかご用件でも」
振り向いた視線の先にいた秘書が、首を傾げるわたくしに合わせて疑問符を浮かべる。
「…疲れてるのかしら、わたくし」
「今更自覚なさいましたか」
「今更、…ってなによ、上司に向かって」
「お叱りの前にどうぞご休憩を」
呆れ顔の彼に促されてようやく、昼食さえ抜かしていたことに思い至った。途端、おなかがきゅるると音を上げる。急ぎの案件が舞いこんだためにここ連日働き詰めだったから、その疲労が幻聴というかたちで現れてしまったのかもしれない、そう結論付けた。
大体会いに来てくれないカルロッタも悪いのよ。
秘書がすかさず淹れてくれたレモンティーをひとくち、差し入れてくれたクッキーをひとくちかじりながら、もう何ヶ月も顔を合わせていない恋人に向けるのは溜まりに溜まった鬱憤。
もちろん彼女だって、ジャングルから出る暇もないほど忙しいことは百も承知だ。けど、だからって、手紙の返事を三週間も止めることないじゃない。元気よ、だとか、会いたいわ、だとか、たった一言だけだってうれしいのに。
脳内から束の間仕事関係の思考が離れ、その隙間を埋めるようにふつふつと湧いてくる怒り。
怒ればおなかが減る。おなかが減ればクッキーに手を伸ばす。わたくしがふくよかになったらカルロッタのせいだわ、などとまた責任転嫁しながら、よっつ目のクッキーの袋を開けた。
***
次にやってきたのは気配、だった。
覚えのある香りに顔を上げ、だけどそこには静かに佇む扉ひとつしかなくて。
来客用の鈴はなっていない。
いまたしかに、カルロッタがいつもまとっている蜜に似た香りがしたのに。いくら彼女が神出鬼没だからって、まさか突然室内に現れ声もかけずに去っていくなんて考えられなかった。
外から花の香でも迷いこんだのかと考えもしたけど、窓は鍵さえ開いていない。一応窓辺に寄り、戸締りを確認する。錠はしっかり下りている。
──…ア…、グロ……ア………、
またこの、声。
耳を覆うように降ってきたそれに肩が強張る。弾かれるように振り返ってみても、この部屋にはやっぱりわたくし以外だれもいなかった。
さすがに背を冷たいものが滑り落ちる。
ただの一度きりであれば、疲れのせいだと一蹴できた。だけどきちんと食事も睡眠もとっているのに、こうも連日、しかもはっきりとかたちになった幻聴に襲われるものだろうか。
「…カルロッタ、なの…?」
恐る恐る口にした名前は震えていた。いないことはわかっている、いるはずがないことも知っている、だけどいっそ、すぐさま目の前に現れちょっと驚かしてみただけよと笑ってくれたらどんなにかと。
声はこたえない。
それまで室内を満たしていた異様な雰囲気がふつりと消え、いつしか普段の静寂が戻ってきていた。我知らず抑えていた呼吸を吐き出す。力の抜けるまま、椅子に身体を預けた。
手紙を出そう。気疲れした頭がたったひとつの拠り所に縋る。彼女は占いだとかまじないだとか、そういった方面に明るいと耳にしたことがある。非科学的なものに頼るなんてと嗤笑する余裕も、いまはなかった。わたくしを呼ぶものの正体がなにであるかはわからないけど、身体を底から震わすそれが善であるはずがない。
机に転がしたままのペンを取り、もう慣れた宛名を綴る、たったそれだけで悄然とした心が晴れていくようで。
『拝啓カルロッタ・マリポーサ様』
たすけて、と。インクににじませた悲鳴をどうかすくって。
***
そうして最後にやってきた、感触。
肩を叩かれた気がした、だけど振り返らなかった、だって背後には窓しかないのだから。
“あれ”だ、と。本能が告げる、ここ数週間、ひたひたと徐々に距離を詰めてきている“あれ”がついに手を伸ばしてきたのだ、と。
まぶたをぎゅうと閉ざす。
カルロッタにはもう何通も手紙を送っているけど、ただの一度だって返ってくることはなかった。もしや手紙を開封する間もないほど仕事に忙殺されているのだろうかと案じてサロンへ電話をかけてみてもいつだって通話中。
行こうと思えば会うこともできた、使いの者に言伝を頼むことだってできた、だけどなんだか悔しくて。きっとわたくしのことなどどうでもいいのだと思い知るのが、こわくて。じっと耐えてきた。日増しに明瞭になる声に、強く鼻先を掠める香りに、気のせいだと首を振って。
──グローリア、
声が背筋を撫で、ぞわり、肌が粟立つ。
カルロッタの声なのに、カルロッタのにおいなのに、これはカルロッタじゃない、カルロッタであるはずがない。
──グローリア、いらっしゃい、はやく
耳を塞いだって頭の中に直接声が響く。膝に力が入らなくなって思わずその場にしゃがみこんだ。
ああだって、カルロッタが来てくれるはず、ないもの。救いを乞うてもたすけてと求めても、声はちっとも届かないんだもの。きっとわたくしのことを思い出しもしないあの人はたとえわたくしがなにかに苛まれようと蝕まれようと意に介さないんだもの。
“それ”がわたくしの頬を撫でる。吐き気を催すほどの冷気が身体の内へと入りこんでくる感覚。
ともすればいとおしさに似た意思さえこもった手つきに、こみ上げた悲鳴がのどで潰れた。
どうして、どうしてたすけにきてくれないの、なんでかけよってくれないの、わたくしはこんなにさけんでるのに、カルロッタ、おねがい、おねがいたすけて、
──ねえグローリア、
「さわらないでっ、」
くちびるにまで伸びてきた“それ”を振り払おうと腕を投げ、ああようやく声が出たと安堵、した、のに、
いままで見えなかった“それ”が姿を現す、
結い上げられた髪、藤色の服、蝶を模した片翅の仮面、の、奥底で光る、闇色の眸、
振り上げた腕を絡め取って、わたくしを真正面から映して、
にい、と、
あの人はそんないやらしい笑み、浮かべないのに、
『 つ か ま え た 』
あの人の声、が、して、
意識が、ぐるり、引っ張られた。
***
「─…ええ、夜が明けてから私が送り届けるから。だから勝手に伝えに行くなんてこと、絶対しないで、いいわね」
心配を眉に乗せたままベッドから離れようとしないモデルたちに就寝を促しながらもう一度、釘を刺す。
私のいつになく厳しい物言いに余計、不安を煽られたのだろうか、彼は怪訝を、彼女は心痛をそれぞれ表情に乗せた。先日アメリカンウォーターフロントへと使いに向かわせたひとりが傷を負って帰ってきたばかりだ、動揺するのも無理はない。
大丈夫だからはやくおやすみなさいと笑いかけてみせる。それでようやく安堵したのか、ふたりは頭を下げて退室していった。
息をひとつ、堪えていた視線をようやくベッドへと向け、そうしてずきりと、容赦なく襲う罪悪感。
サロンから程遠い奥地でグローリアを発見したのは、つい一時間ほど前のこと。
ざわめく心に追い立てられ足を運んでみれば、覚束ない足取りで彷徨う太陽色を見つけたのだ。
私に気付く様子もないグローリアは虚ろな眸のまま、まだ奥へ進もうとしていた。うちのモデルたちでさえ、注意深く足を進めなければ迷いこんでしまうというのに。しかもいまは月さえ顔を出さぬ夜更け。女性ひとりで出歩いていい時間でも場所でもなかった。
どうしたのよグローリア、と呼びかけた、万が一、こっそり私に会いに来たものの道がわからず迷ってしまったなんていう可能性にかけて。グローリアはこたえない。私ではないものを求める彼女の姿に背筋が凍る。
予兆はあった。
はじめはグローリアからの手紙が途絶えたこと。筆まめな彼女は、どんなに多忙でも一週間後には文を送り返してくるのに。こちらから手紙をしたためても音沙汰無し。
次に電話が通じなかったこと。慣れない電話を何度かかけたのに、向こうはいつも通話中。忙しいのだと言われてしまえばそれまでだけれど、いつまで経っても通じないのがおかしいことくらい、機器に疎い私でもわかる。
なにかあったのだろうかとグローリアの職場へ使いを送ってみれば翌日、全身に傷を負ったその子が森の奥で倒れていた。幸いどの傷も深くはなかったけれど、彼の意識はまだ戻らない。
そういえばここ数ヶ月、森に住まう蝶たちが妙に群れを成していた、まるでなにかを恐れているみたいに。
かすかな呼吸を繰り返すモデルを前に、ずっとつきまとっていた予感が確信へと変わる。
そうしていよいよグローリアを直接訪ねようかと考えていた矢先、当の本人を発見したというわけで。
あいにいかなくちゃ。
たどたどしい言葉遣いが落ちる。
よばれてるの、カルロッタに、だからいかなくちゃ。
腕が伸びる、目の前にいる私にではなく、もっと奥、星の光も届かない闇に。
連れていかせやしないわ。
グローリアがまろんだ隙に身体を支えそのまま、額にくちびるを重ねた。暗く澱んだ水槽色の眸をぐと開いた彼女が抵抗するように腕の内で暴れて、けれど息を吹きかければふ、と力が抜けていく。どうやら意識を手離したらしい。
ここへ運ぶ間、一度も目を覚ますことのなかったグローリアはいま、ベッドで苦しそうに眉を寄せている。発熱しているからか、拭っても拭ってもつたう汗のせいで髪は額に張りついてしまっていた。
かたちにならない呻きがまたひとつ。私はただ、こまめに汗を拭き、発熱しているのに異常に冷たい指を握り、まぶたにくちびるを落とすことしかできなかった。
「─…カル、ロッ、タ…?」
何度目かのくちづけを降らせていたところへふいに届いた声は、闇夜の中で聞いたそれより幾分かはっきりしていた。
視線を持ち上げればちょうどまぶたを開いたグローリアと目が合う。熱のせいで潤んだ水槽色が、今度はたしかに私を映した。
きゅ、と。こちらから握るばかりだった指にわずかな力がこもる。
「調子はどう、グローリア」
言葉に安堵が混ざる。このまま目が覚めなければどうしようかと──そんなこと私がさせるわけがないけれど、それでも最悪の事態が浮かばないはずがなくて。
すっかり血の気を失ったくちびるが震える。なにかを伝えようとしているグローリアの口元にそっと耳を寄せた。
「よばれ、たの、…あなたに」
荒い呼吸とともにぽつりぽつりと言葉が落ちる。ごめんなさい、と。謝罪の意を乗せた眸が徐々に水を張っていく様が痛々しい。
「あなたじゃない、って、わかってた、のに。でも、いかなくちゃ、って」
「わかってるわ。もう大丈夫だから、グローリア」
「ごめんなさ、」
「いいから」
両手で握りしめたグローリアの左手にやわくくちづける。なおも言い募ろうとするくちびるから次の音が繰り出されることはなく、代わりに途切れ途切れの寝息が聞こえはじめた。幕が下り、水槽色が隠れたことを確認し息をもう一度。
できれば悪夢に襲われませんように、と。夢を塗りかえる術を持たない私はただ手を捧げ持ち祈るしかなくて。
ああけれど、祈るよりも確実な方法がひとつだけある。
突如、明滅しはじめる室内。
ちかちかと視界がまたたく合間に吹き抜ける生ぬるい風。
来た。この子を苦しめている、“あれ”が。
グローリアの手の甲にもう一度、くちびるをつける。ぼう、とグローリアの身体全体を覆う薄紫の光。これでしばらくの間は存在を気取られないはずだ。氷みたいに冷たい指を手離し、振り返った。
しっかりと錠を下ろしていたはずの窓が開いている。乱暴になびいたカーテンが派手な音を立ててレールから外れ、そうして床に落ちる前に切り裂かれていく。
「無駄な小細工はいいわ、早く来なさい」
声に自然、怒気が混ざる。私の声を聞き咎めたのか途端、渦を巻いていた風の音も揺れていた葉も空気さえも、静止した。
ずる、と。濃く深い影が、窓から徐々に姿を現す。灯りが明滅しているせいで、侵入してくる様子がコマ送りのようにぱ、ぱ、と途切れて見えて。
一歩、一歩。その全貌が露わになっていく。結い上げられた髪、藤色の服、蝶を模した片翅の仮面、その奥底で光る、闇色の眸。
「あら、随分と猿真似が上手になったじゃない」
床に降り立った“それ”は、姿かたちだけだけは完全に私そのものだった。
心当たりはあった。
以前、グローリアに乞われて森の奥地に佇む神殿へと足を運んだ際、かすかに邪なものの気配を感じ取ったのだ。卑俗で低級だからと気にも留めていなかったけれど、まさかグローリアを見初め、ひと形を取れるほどの力をつけるだなんて。
目の前で私と同じ外見を取った“それ”はにい、と口角を醜悪に歪めてみせる。
以前とは比べものにならないほどの圧がさっきから肌を突き刺さんばかりに襲いかかってきていた。
背後から伸びる影がなにかを探すようにこちらへと伸びる。その手がグローリアを求めていることは明らかだった。“これ”のようなものたちはまず対象を孤立させ、心を不安定にさせる。不確かな人の心に取り入ることは容易いから。そのために私との連絡を遮断し、モデルにまで危害を加えて。
──どこにいるの、グローリア
私の喉をそのまま切り取ったかのような声でグローリアの名前を口にする。
鼓膜を介さず頭に直接響く音にびくり、身体を強張らせる気配は背後から。きっとこの禍々しい澱みを感じ取ってしまったのだろう。
「─…図々しい」
私の感情に呼応して巻き起こる風。
ベッドサイドに飾っていた花束の花弁がちぎれ、各々風に身を任せる。くるくると私を囲む黄金色のそれはいつしかその身を美しい蝶へと転じ、互いに翅をすり合わせる。
目の前の“それ”が動揺を露わに後ずさる。
逃がしはしない。グローリアを苦しめた報いを嫌というほど刻むまでは。
「グローリアが魅力的なのはわかるけれど、」
右手を真横にかざす。影の侵食が止む。
怯えたふうの“それ”がグローリアの名前を紡ぎかける。いいえ、その名を口にすることももう、許さない。
「お前如きがふれてもいい人ではないの」
ざあ、と。風が一直線に窓へと吹き抜けていく。私の脇をすり抜けた蝶たちが、明滅する明かりを受けまばゆく輝く。蝶たちに迎撃された“それ”が自身の影を盾にするもののすべてを防ぎきることは出来ず、徐々にその身体が宙に舞い、飛び交う蝶たちに翻弄されて。
す、とそのあごをすくい取る。私によく似せた顔が凍りつく。自分では見ることの叶わない表情を前にするなんてなかなかない体験ね、と。思ったのはそんなこと。
「覚えておきなさい、──この子にふれていいのは唯一、私だけよ」
“それ”の顔が恐怖に歪む。私の声で悲鳴を上げた気がするけれど、勢いを増した風に呑みこまれていった。
指先から、足先から、髪の先から、さらさらと影に同化していく。蝶が闇をさらい、窓の外へと飛び去って。
そうして大きな音を立てて窓が閉まれば、室内には再び静寂が帰ってきた。部屋に流れる空気が清涼なものへと変わる。明かりはいつの間にか元の役目を取り戻している。
気配が完全に消えたことを確認し、そっと息をはき出した。
振り返れば、胸をゆるやかに上下させるグローリアがひとり。
ベッドのふちに腰を下ろし、術を解いてからその手にふれた。人並みの体温に安堵する。熱が引くまでにもう少しばかりかかるだろうけれど、きっともう大丈夫。“あれ”はもうどこにもいない。グローリアが狙われることももう、ない。
握った手にくちびるを落とせば、かすかに、だけどたしかに握り返してきた。
***
泣きそうなほど安堵した、だって本物のカルロッタがわたくしの手を握ってくれていたから。
目覚めて最初に見えた宵色の眸に、ああ、あのひとだ、と。どうしてカルロッタの家のベッドで横になっているのかだとか、どうして熱に浮かされているのかだとか、そんな疑問の前にただ、ようやく求めていた人に会えたことがうれしくて。
思わずこぼれそうになった涙は、だけどわたくし以上に泣き出しそうだったカルロッタに抱きしめられたことで眸にとけた。
「…くる、しいわ、カルロッタ」
「ごめんなさい、でももう少しだけ我慢して」
彼女の拘束は、力をなくした身体に響くけど、それでも加減している方なのかもしれない。まだ満足に腕を動かせないから、代わりに目の前の肩にそっとくちびるをふれさせた。
ようやく喋る気力が戻ってきた頃に疑問をぶつけてみた。
なのにカルロッタは、知らないわだとか、夢でも見ていたのよだとか、そればかり。たしかにうなされていたようではあるけど、寝込む前に体験した彼女にそっくりの声や気配や感触、それに、一瞬だけ見えた蝶の残像たちは、夢なんて一言では到底説明できるはずもない。
「あなたは知らなくていいの」
そんなふうに断言されてしまえばもう、追及できなくて。髪を撫でつける指の感触が心地よくてまた、目を閉じる。
「…いつかちゃんと説明してもらうわよ」
いつか、なんて言ってみたものの、そのいつかは来ないような気がした。きっとカルロッタがひた隠しにしていることが、事の顛末のなかに含まれているだろうから。
無理に聞き出すつもりはない。彼女がこうしてそばにいてくれるなら、それでいい。
──…リア、
夢に沈む直前。頭のなかにひびいたこえ、は、
(あなたのこえであって、だけどあなたのこえではないきが、して、)
つれていかれてしまうからね。
2019.2.14