はじめましょう、これからふたり、ゆっくりと。
かの高名なファッションアーティストであるグローリア・デ・モードはここにきて今更、頭を悩ませていた。ええと、このあとどうすればいいのかしら、などと。
脳内を占める疑問符を口に出さなかったことが彼女のせめてものプライドだったのかもしれない。目の前の紅をはぎ取らんとする勢いでくちづけを送り、ぎゅうとまぶたを閉ざし必死に応える恋人にかわいいわねと素直な感想を向けつつその実、この先をどう運べばいいのかまったくもってわからないことを悟られないようかき集めた余裕を顔面に貼りつける。
グリーリアと、ロストリバーデルタで同じくファッションアーティストとしてその名を馳せているカルロッタ・マリポーサが春をともに過ごすようになって今年て三年目。はじめは意見を衝突させていたふたりが、けれど目指す場所は同じだと気付き、それから互いを意識し合うまでに大して時間はかからなかった。
季節が移り変わってもなにかと口実をつくっては顔を合わせ、言葉を重ね、逢瀬の頻度が増えて。
あなたの家にお邪魔していいかしらと窺ったのはグローリア、あなたなら大歓迎よと笑顔で了承したのはカルロッタ、まだお話していたいわともう少しをねだったのはグローリアで、今夜は遅いから泊まっていきなさいと誘いをかけたのはカルロッタだった。じゃあお言葉に甘えて、なんて優雅に微笑んだグローリアは内心ぐっとこぶしをかためた、こんなこともあろうかと自身が手がけた中で一番お気に入りの下着をつけてきてよかったと。
入念に身体を洗い流し、家主が張ってくれたあたたかな湯に沈んだグローリアは気恥ずかしさを抑えるべくぶくぶくと息をはき出す。
カルロッタが自身を友人以上に想ってくれていることは、勘違いでも思い上がりでもなんでもないはずだった、その証拠に彼女がグローリアを見つめるときの眸はいつだって、焦がれるようにまっすぐだから。きっとこれから指を絡み合わせて、くちびるを重ねて、それから──それからどうするのかは、わからなかった。
色恋自体が生まれてはじめて、というわけではもちろんない。これまでの人生において、言い寄ってきた人間はそれこそ両手で足りないほどいたのだから。けれどデザイナーとしての道をただひた走ってきた彼女はだれかひとりと密な関係にまで発展したことがなく。つまりカルロッタだけが唯一、彼女の心に入りこんできたというわけで。
カルロッタの情熱的な視線がふと脳裏をよぎる。ぶくぶく、湯に浮かぶ泡が数を増す。知識としては知っている、もちろん。しかし知っているからといって実行できるかはまた別の話である。
ぶくん、と。頭のてっぺんまで湯に浸かれば、ぼわぼわと音の歪んだ鼓膜にやさしく名を呼ぶカルロッタの声だけが響く。余裕をその身にあふれさせている彼女のことだ、きっと自分よりうんと経験豊富だろうから、すべてを彼女の手に委ねることにしよう。そう決めたグローリアは、期待を胸に浴室を後にした。
カルロッタから借りた手触りのよいネグリジェを身にまとい、ひとつのベッドに滑りこみ。尽きない話題にしばし笑みをこぼし、しばらくしてそろそろ寝ましょうかと部屋の主が灯りを落として。
ああいよいよねと、まだ闇に慣れない眸をぎゅっと閉ざしその時を待つ。グローリア、と。夜の気配を孕んだ声がひとつ。うるさく響く鼓動をかき分け届いた名前に返事をすることもままならないうちに頬に指先が触れて、ぐるり円をえがくように撫ぜられ。たしかないとおしさがこもった手つきに胸が高鳴る、彼女を好きでいてよかったと、これほどまでに感じた瞬間はないくらいに想いがふくらんで。
けれど──けれども。待てど暮らせど、その先がもたらされない。息づかいは伝わるのに頬以外に一向に触れてこないのは一体全体どういう趣向なのだろうかと内心首を捻ってみても答えが与えられるはずもなく。
待ち続けるのももう限界でそろりとまぶたを開けてみれば、わずかな月明かりを背負ったカルロッタが困ったように眉を寄せていた。わからないの、と。言葉を落とす姿はどこか、穢れを知らない無垢な少女のようにも映って。
「ええ、と。わからないって、なにが」
「だから、その。…このあとどうすればいいのか、が、わからなくて」
ようやく慣れてきた視界が捉えたのは、顔をこれでもかとばかりに染めたカルロッタ。普段くちびるを彩っている口紅よりもまだ色濃いそれが首筋にまで侵食している。これまで見たことのない彼女の姿に戸惑うグローリアの目の前で、恥ずかしい話だけれど、と言葉を続けたカルロッタは、ともすれば泣き出す手前にも見えて。
「こんな経験、いままでになくて。だれかと、…あの、こんなふうになったことも。だれかをどうしようもなく想ったことも、なくて」
ぽつぽつ、落ちてくる告白のひとつひとつがゆっくり染み渡っていくようだった。
どうしようもなく想っているのだと。それははじめてカルロッタが打ち明けた心。グローリアと同じ気持ちを抱いているのだと、言葉よりもたしかにその表情が伝えていて。そんな彼女にどうしていとおしさが募らないでいられよう、どうしてあいさずにいられようか。
震えるカルロッタの頬に手を添えればびくりと、大仰に身体をこわばらせて。大丈夫よとやわらかく微笑んでみせたグローリアは、引き寄せた額にそっとくちびるを触れさせた、大丈夫よ、と。ぐるり、体勢を入れ替えながら繰り返した言葉に、グローリアをとかしこんだ眸がゆるりと潤んでいく。
「私にぜんぶまかせて」
「…グローリ、」
名前が最後まで紡がれるよりも早く、こみ上げる感情のままくちづけた。はじめてのキス、はじめての熱。重なったそこから心があふれていきそうな感覚もまた、はじめてのことで。身体をぴたりと密着させ、それでもどこかもどかしく、舌で口内に割って入り距離をゼロにする。奥で縮こまっていたカルロッタの舌を引っ張り絡み合わせれば、まるでひとつにとけていくような錯覚に襲われくらり、眩暈さえ起こる。たどたどしい舌の動きはけれどグローリアに合わせようと必死で。
そういえばキスの合間の息継ぎはどうすればいいのかと、頭をよぎった瞬間どんと、胸に軽い衝撃。思わず距離を空ければ、カルロッタがおもいきり息を吸いこんで、けれど大きく咳きこんだ。
「ごめ、なさい、息、どうやってすればいい、のか、しらなくて、」
「…ああもう、」
かわいすぎよ、あなた。同じことを考えていた自分は棚に上げ再度、くちびるを奪っていく。ぎゅうとかたくまぶたを閉ざしたカルロッタが、グローリアがまとうネグリジェの胸元を両手で握りしめる。
かわいいことしてくれちゃって、と。はやる心のまま手を下へと移していき、そうしてはたと、グローリア・デ・モードは思い出した、子供のように眸を閉ざす彼女と同じくこの先どうしていいのかまるでわからなかったことを。
まかせてと言った手前、私も経験なくてなどと今更告げられるはずもなく。とりあえずくちづけの雨を降らせながらことさらゆっくり手を移動させていけば、シルクのネグリジェ越しに伝わる下着の感触。自身も毎日身に着けているものとはいえ、人のものを脱がせた経験などあるわけがない。しかも下着よりも前に寝間着をはぎ取らなければならないという難題つき。肩紐から腕を抜き去りめくっていけばいいのか、それとも裾からたくし上げていくのが正解なのか。考えたって答えのわからない問いがぐるぐると頭をめぐり、次第にくちづけに集中できなくなっていく。
「…グローリア?」
敏感に悟ったカルロッタが、くちびるが離れた一瞬を見計らい疑問符を落とした。純真な眸に見上げられ、ぐ、と言葉に詰まる。その行動ひとつで、察しのいいカルロッタはふと、口角をゆるめた。グローリアの両頬を包みこみ、ゆっくりと、先ほどまでの性急さはどこへやら感触をたしかめるようなくちづけを送って。
間近にせまった眸は笑みのかたちに細められたものだからつられて、グローリアも表情を綻ばせた。くすくすと、それまでの艶を含んだ気配がふたつの無邪気な笑い声を前にするするほどけていく。
「ごめんなさい、すこし背伸びしちゃったの、私」
「私こそ。年上なんだからリードしなくちゃと思っていたのに」
「あら、年齢の話はいいっこなしよ」
「そうね、関係のないことだったわ」
あどけなく笑うカルロッタにくちづけをもうひとつ。
ゆっくりでいいのだと、乱れたカルロッタの前髪を撫でつけたグローリアは苦笑する。背伸びしなくてもいい、余裕で囲っていなくてもいい、ふたりのペースで進んでいけばいいのだと。目の前の彼女も同じことを考えていたようで、はらりと落ちた太陽色の髪を耳にかけたカルロッタは、グローリア、と。こぼした名前は変わらず愛がこめられていて。
「すきよ。これまでも、これからも」
「ええ、私も。たくさんたくさんすきよ、カルロッタ」
額を突き合わせ、笑顔を交わす。彼女たちの夜はまだ、はじまったばかり。
(だって私たち、これからずっと一緒なんだもの)
ふたりともうぶだといい。
2018.4.2