貴女は春そのもの。

 たとえば妖精、あるいは天使。 『なぁにそれ』  私にいつだって芽吹きを、華やぎを、新たななにかを与えてくれる彼女は、仰々しい喩えに頬をゆるませる。  ほら、また。  貴女が笑うだけで、感情を乗せるだけで、周囲の空気までも呼応する。風が歌う。陽が跳ねる。花が綻ぶ。春に息づくすべてのいきものは彼女が彩っているような、そんな錯覚さえ信じ込んでしまいそうになるほど。  ほっそりとした中指の先が、滑り落ちた横髪を耳にかける。陽にとける金糸が目に眩しい。一体この人は、どれだけ私に刻み込めば気が済むのだろう。と言ってもその彼女自身は、私に大きく痕を残していることを知る由もないのだが。  どこまでも鈍感で、どこまでも気儘な彼女はいつだって無意識に私を振り回す。その奔放さに惹かれてしまった私の負けだった。 『貴女は今日も可憐だと言っているのですよ』 『あなたは相変わらずわたしをおだてるのが上手ね』 『本心だといつも言っているでしょう』  そう、全てが心の叫び。狂おしいほど募った想いの丈を、けれど茶化して口にしてしまえばいつかは昇華できるだろうと。これは人知れず流してしまわなければならない想いなのだ。 『わたしが春の精だっていうなら、』  ふ、と。彼女の浮かべた微笑みは最近とみに見かけるようになったもの。いつまで経っても無邪気な少女だったはずの彼女がけれどもうひとつの肩書きの片鱗を見せる、その瞬間に、寂寥感よりも喜びを覚えるなど。  まだ目立たない自身の腹を慈しむように撫でた彼女が眸を細める。空のように澄んだ眸が遥か未来を見透かす。 『それならこの子は──、』  ***  午睡は春風に静かに散らされた。 「あら、おはよう」 「─…申し訳ありません、少し微睡んでいたようです」 「仕方ないわ。最近働き詰めだったから」  ティーカップを両手で掲げ持った主が苦く笑う。その苦笑の中に、けれど達成感が垣間見える。  先程ようやく、数ヶ月取り組んでいた案件が片付いたのだ。彼女にこそ疲労が溜まっているだろうに、私の分の紅茶まで用意してくれているとは。この心配りは母親譲りだろうか。  彼女の母も同じ紅茶を愛飲していた。  部屋に淡く満ちたこの香りが、あるいはひとときだけ引き会わせてくれたのかもしれない。若い時分は夢に見たその朝には罪悪感に潰されそうになっていたものを、今となってはこんなにも穏やかに受け入れることができる。  春の妖精に恋をしていたあの日から数十年。あの方がこの世を去り、私の身体は老いさらばえた。  それでもなおあの方の痕を辿れるのは、あの方の愛がこの世界に根付いているから。あの方に生き写しのその人が、今もこうして笑っているから、なのだと思う。 「しばらく休暇をあげるから、羽でも伸ばしてきなさいな」 「この老いぼれには伸ばす羽も残っておりませんよ」 「まだまだ全然元気なくせによく言うわ」 「お元気なのはお嬢でしょう」  時計を確認した彼女はカップを置き、いそいそと支度を始める。  連日の徹夜から明けた直後に恋人のもとへ馳せ参ずる体力はもう、私には無い。無いものの、休暇を与えられたならばその一日くらいは、いとおしい人に会いに行くとしよう。暫く墓前に立っていないからきっと、あの方もへそを曲げているに違いないから。  スプリングコートを羽織った現主は、どうかしら、と尋ねながらくるりと一回転。 「よくお似合いですよ、お嬢。きっと誰よりもお美しい」 「あなたってわたくしをおだてるのが上手よね」 「本心だといつも申しておりますのに」  太陽色の髪が彼女の笑みに合わせて揺れる、瞬間、風が歌い、陽が跳ね、花が綻んだ、気がした。  陽光を反射する彼女に思わず目を眇める。  あの方の言葉がひらめく。それならこの子は、 「じゃあ、行ってくるわね」 「─…お気を付けて、お嬢」  まばゆい光の中、春が爛漫と笑った。 (けれど貴女もまた、私にとっては春でした)
 貴女の面影さえ私は愛しました。  2019.4.15