準備は万端、虎視眈々。

 まだ夜は始まったばかりだというのに、早くもグローリアはつい先ほど自身が余裕綽々と口にした言葉を後悔していた。  先にお風呂に入ってきなさいだなんて、一体どの口が吐いたのかしら。  焦りと怒りと憤りを、立てた泡に目いっぱいこめ、殊更入念に、丹念に、しかし迅速に、身体の隅から隅まで清めていく。  たとえば先に湯浴みを済ませていたのなら、ベッドを整えることも、時間をかけて髪を乾かすことも、イメージトレーニングだって出来たのに。だというのに先刻までのグローリアは、洩れ聞こえてくるシャワーの音にその後の期待ばかりを膨らませ、まったく準備を怠っていたのだ。  考えを巡らせていたことといえば、カルロッタはどんな夜着を纏ってくるのかとか、灯りを落としたときどんな表情を浮かべるのかとか、色にまみれたものばかり。準備だとか段取りだとか、そんなものは一切合切頭から抜け落ちてしまっていた。  よくよく考えてみれば─よくよく考えずとも明白なのだが─グローリアにとってカルロッタは初めての夜の相手。営みに綻びが出てしまわないよう最善を期さなければならないというのに。けれども浮かれていた原因もその初めてという点にあるのだから仕方がない。  人生で初めて想いを寄せた相手がカルロッタ、とまでは言わないが、肌を重ねたい、熱を交わしたいと渇望したのは正真正銘カルロッタが初めてだった。カルロッタの体温を、先をねだる指先を、欲に浮かされた眸を想像してうずくグローリアの脳内からその他一切が忘れ去られてしまうのも当然と言えば当然のこと。  頭から水を被り、泡を洗い流す。腕を鼻先に寄せる。カルロッタがいつも纏っている香りと同じそれにまた思考が占められそうになり、慌てて首を振った。これ以上浮かれて失態を重ねるわけにはいかないのだ。  用意されたバスタオルを手に取り─まっさらなそれからも漂う持ち主の香りに惑わされないよう、気を強く持つことも忘れず─水滴を拭い、カルロッタと揃いの夜着を身につけ、浴室の明かりを落とし、するりと扉を抜ける。  寝室へと続く道を、逸る気持ちのまま猫のように駆ける。  まあ、ねこみたいにこれからにゃあにゃあ鳴くのはカルロッタのほうだけど。などとゆるむ頬はもはや抑えきれない。  寝室の扉をくぐれば、果たして最愛の彼女は変わらずそこにいた。  暗闇に侵食された室内でただひとつたしかな月明かりを浴び、かすかに潤んだ夜色の眸を細めて微笑んでいる。  ああ、きっと不安でいっぱいなのね──揺れる夜色に庇護欲をくすぐられたグローリアは、いてもたってもいられず駆け寄りぎゅうと抱きしめる。なかなかの勢いで羽交い絞めにされたにも関わらず動揺さえ表さないカルロッタが背に腕を回す。  つ、と背骨をたどる指先。不安や恐れをまったく孕んでいない動きに、グローリアの肩がびくりと跳ねる。  はて、と彼女は首を傾げる。いまだ水滴をこぼすグローリアと違い、カルロッタの髪は丁寧に乾かされていた。シーツは飛び乗る直前まで寸分の隙なく皺が伸ばされていたし、なによりあふれるこの余裕。でもさっきはあんなに寄る辺ない眸をしていたのに。  ぐるぐると回る思考はけれど背中の窪みをつたう熱に侵食されていく。甘く痺れる腰がもはやまともに座ることも放棄したせいで、カルロッタに体重を預ける格好となってしまった。  見計らったように身体を横たえられる。  見えるのは夜色と、艶やかに弧をえがくくちびると。 「安心して、グローリア」  見誤っていたのね、そういうことなのね──つまりは不安ではなく欲を灯した眸だった、ただそれだけのこと。  ベッドを整え、髪を丹念に乾かし、イメージトレーニングを完璧にこなしたのはカルロッタのほうで、そうしていまからねこのようににゃあんにゃあんと鳴かされるのは、 「──完璧な夜にしてあげる」  夜の帳のように髪が下りたのを合図に、グローリアにとって長い夜が訪れた。 (あらあら、まるでねこみたいね) (そ、れ、わたくしが言いたかっ、あっ、)
 狙うのは。  2019.9.26