願いはむなしく手折られました。

「ゆっくり生きていこうって決めてたの、あなたと」  まるで懺悔するように、ともすれば追憶するみたいに、グローリアはこぼす、諦めのにじんだ笑みを浮かべて。 「はじめて顔を合わせた日のこと、ねえ、覚えてるかしら。わたくしはよく覚えてるわ。  不愛想なひと。付き合いの悪いひと。社交に忙しいわたくしを鼻で笑うような、そんなひとなんだって。きっと一生分かり合えっこないんだわって。だけどきっと、一生いっしょにいるんだわって。  疑ってるでしょ。でもね、わたくしも不思議だったのだけど、息をするみたいに自然とそう感じていたのよ。そりが合わないこともあるかもしれない、喧嘩する場面も多いかもしれない、だけどきっと、いいえ絶対、あなたとわたくしはこれからの時間をともにしていくんだって。  何度も考えたわ。ええそうよ、段階をね。どうやって距離を縮めていこうかって。  まずは花を贈ろうかと思ったの。わたくしがいっとうすきな花。自然をこよなく愛するあなたもきっと喜んでくれるでしょうって。でもだめね、思い浮かぶ花のどれもこれもに特別な意味がこもりすぎているんだもの。勘付いてしまったあなたがもし、快く感じなかったら。そう考えると渡せなくなってしまったの。  食事に誘おうかとも思ってたの。分刻みの計画まで立ててね。いきつけのカフェでランチをして、人気の舞台を観賞して、ディナーは夜景の美しいラウンジで、なんて。あれこれ考えるのは楽しかったけど、いざ実行するとなるとこわかった、だってわたくしのお気に入りのなにもかもをあなたが気に入らなかったら、誘い出す理由を問われてしまったら。想像でしかないのに、それだけで足が竦んでしまうのはね、あなたがすきだからなの。どうしようもなくすきだから、どうしようもなく臆病になってしまっていたの。物怖じなんてしてこなかったこのわたくしがそんなことを恐れるなんて、笑っちゃうわよね。  いまだからこそわかるけど。そんなこと、あなたが思うはずないって。きっとどんなものだって受け入れてくれるって。わたくしが大切にしてきたものをきっと、あなただって慈しんでくれるって。  …そんな確信が最初からあれば、こんなことにはならなかったのに。  ねえ、わたくしね、いまとても後悔してるの。とてもよ。あのとき臆病風に吹かれなければ。踏み出す勇気があれば。あなたのことをもっとよく知っていれば。無駄なもしもばかりを連ねてしまうの。  だってそうすれば、」  のどの震えを呑みこんだグローリアはそうして、 「──こんなかたちで私に抱かれることもなかったのに。そう言いたいんでしょ」 「だ、だだだ抱かれるってあなたっ、」  言葉を引き継いだ私に、真っ赤に染まったグローリアの叱責が飛ぶ。勢いのままがばりと上体を起こし、けれど自身の状況─つまりなにも身にまとっていないこと─を思い出し、慌てて毛布に逆戻り。  口元まで引っ張り上げたグローリアの羞恥に濡れた眸がこちらを睨み据える。もう散々目に焼きつけたあとだというのに、なにを今更恥ずかしがることがあるのだろう。毛布の端をぴらりと持ち上げる。ぺし、頬をやわらかに打つ体温。いたい。 「だ、大体あなた、手を出すのが早いのよ!」 「どうして。もう知り合って五年になるのに」 「段階を踏んでないって言ってるのっ」  わたくしにだって計画だったり心の準備だったりが必要だったのよぉ。ついには頭まですっぽり隠れてしまったグローリアは、くぐもった泣き言を洩らす。彼女の指す計画というのがつまり先ほどまで恨みがましくこぼしていたそれなのだろう。  たしかに、彼女の言うところの計画を壊してしまったのは紛れもなく私だけれど、ここまで恨みを向けられるのも釈然としない。私には私の言い分がある。 「…私だって考えてなかったわけじゃないわ。可憐で儚いあなたを手折ってしまわないよう、大事に大切に育んでいこうと思ってた、そのつもりだった、だから五年間も手を出せなかったのよ。焦ればきっと失ってしまうから、離れていってしまうことをなによりも恐れていたから。いま思えば、まったく私らしくないわね。  これはあなたも知っての通りだけれど、私の家に引き留めたのはたまたまだったの。近況報告と他愛のない話に花を咲かせて、さてそろそろってあなたが腰を上げたところで、図ったように嵐がやってきたんだもの。この暴風雨のなかあなたを帰すわけにもいかないし、かといって途方に暮れた様子のあなたからまさか泊めてほしいだなんて懇願が出てくるはずもないし。  下心はなかったの、ええ本当に、これっぽっちも。  私からの申し出に顔を綻ばせて、かと思えばでも展開が早すぎるわなんて不安そうに曇る表情を前にしても、かわいいわねなんて感想を心のうちに留めただけだし。浴室から戻ってきたての扇情的に濡れた髪を拭いてあげたい欲求も堪えたし。私のデザインした寝間着をまとっていてもよく似合うわってありきたりな言葉で誤魔化したし。ベッドを譲って自分は居間のソファで寝ようと試みさえしたわ。  ええそうよ、私は大変努力したの。グローリアが時間をかけて私との距離を縮めようとしてくれていたから、たとえどんなにあなたへの想いが募ろうともその意志を尊重したかった。  …なのにあなたときたら。私の我慢も努力も思いやりもなにもかも無下にするんだもの」 「ちょ、ちょっと待ちなさい、わたくしがいつ無下にしたって、」 「寝室を出ようとした私の袖を掴んでおねがいだから一緒に寝てちょうだいって涙目で見上げてきたときよ」 「あー…、んん…、まあ、それは、そう、ね」  話の合間にも横槍を入れかけていたグローリアが、そこでようやくばつが悪そうに閉口した。  そう、私は堪えた、堪えに堪え抜いた。だというのにこの子は私の心を揺さぶった。ひとの我慢を蹴飛ばして欲を引きずり出した。天使だと常々思っていたけれど、その所業は悪魔に等しい。悪魔に誘われてしまったのだから仕方がない。  恐らく持てる勇気すべてを振り絞って繰り出したであろうその手を掠め取り薄く色づくくちびるを奪い去った。そうしてしまえばもう止まれるはずもなく。ベッドに引きずり倒す、その間も惜しくてネグリジェの裾をたくし上げた。絶え間ないくちづけに、グローリアの眉間にしわが刻まれる。けれど襟元をぎゅうと掴む指に拒絶の意思は見えなかったから放してはあげなかった。  ほしかった、この子のすべてが。まだ雫を落とす太陽色の髪も、隠しきれない欲を沈めた水面色の眸も、必死に受け入れてくれるくちびるも、とかされそうなほどの熱も、汗の浮かぶまっさらな肌も、背に縋るほっそりとした指も、うわごとみたいに私を呼ぶ声も、ぜんぶぜんぶ、私だけのものにしたかった。 「あの…、…わたくしが悪い、わね、これは」  頭を抱えるグローリアの胸元に、これでもかとばかり紅が咲いている。まあ、さすがにやり過ぎてしまったけれど、幸いにして本人はまだ気付いていない。自身の身体の惨状を目にした彼女にしこたま怒られてしまう前に堪能しておこうと、ついたため息ごと抱きしめた。 「いいえ、全然」  おずおずと背中に回ってきた腕が、やがて控えめに、けれどたしかに抱きしめ返してくる。いっぱいにあふれる喜びで胸が震える、ああきっと、しあわせとはこういうことを言うのだろう。  花を贈って、観劇して、夜景の見えるレストランで食事をして。これからたくさん叶えていけばいい、ふたりで。だってもう、恐れることはなにもないのだから。 「ね、グローリア、」  すきよ、あなたのこと。耳元に落とした言葉に、わたくしも、と。五年待ち望んでいた想いがようやく返ってくる。  嵐はもうとうの昔に去っていた。 (ってちょっと!痕つけすぎじゃなくって!?) (それだけついてればあとひとつやふたつやみっつつけても変わらないわよね)
 何度だって初夜。  2020.2.2