だってそれが愛だから。

 先生は大層お怒りだった。少なくとも僕たちにはそう見えた。  感情の起伏─特に負の感情─をあまり表に出すことのない先生にしては珍しい。明日は雨でも降るのかなと空を仰げば早速聞こえる遠雷。明日などと言わずいますぐにでも雨音が聞こえてきそうだ。  理由をお尋ねするのも憚られるほどの怒りように、僕をはじめ若い衆はただハラハラと機嫌の行方を見守るばかり。  それでも行き交う断片的な噂を総合すれば、どうやら先生が懇意にしているアメリカンウォーターフロントの例のアーティストが久しぶりにここを訪れる予定だったとか。だというのに約束の時刻を大幅に過ぎても姿を現さないのだとか。それで何日も前から浮き足立っていた様子だったのかと合点がいく。街でいま流行りのお菓子はなんだとか、自室に飾る花はどちらがいいだろうかだとかを僕たちに聞いて回っていたのはそのためか。  人里離れたこのサロンにさえ実力のほどが届く彼女のこと、もしかすると多忙に追われ貴重な休みが潰れてしまったのではないだろうか。鳩に言付けようにもこの天気じゃあ飛ばすことができない、電話しようにもそもそも文明機器アレルギーの先生が線を引いていないせいで通じるわけがない。それが僕たちの推測。  件のあの人を、先生はいっとう大切に想っている。そりゃあ約束をすっぽかされたショックは計り知れないだろうし、先生の怒りもごもっとも。わかるけども、雨雲を呼ぶのはやめてください。だれが嵐に備えると思ってるんですか。  嘆息しつつ中庭の植物たちを温室に移している間にも、陰気くさい雲はサロンへと足音を忍ばせてくる。 「せんせー…」 「私じゃないわよ」 「ぅわお!」  不機嫌な声は真後ろから。飛び上がった僕に怪訝な表情を向けた先生は、持っていた資料やらなにやらを手渡しながら、なによあなたまで、と肩をすぼめる。 「私の顔を見るとみんな、まるで怖いものでも見たように逃げてしまうのよ」  それはあの、近寄ってはならないほどのオーラが出ているからではないでしょうか。などと、僕なんかが進言できるはずもない。  はぐらかそうと引きつった笑みを浮かべる僕に、だけど先生はまるで気付かなかった。視線は窓の外、暗雲垂れこめる空のその先。きっと船着き場に意識を飛ばしているのだろう。先生は普段、始発便が到着するよりも早くに例のあの人を迎えに行く。けれども今回は上客の訪問によってそれが叶わなかったのだという。  間近で様子を見てみれば、どうやら先生は怒っているのではなく、大変心配なさっているだけのようだった。心配が募りすぎて他の一切がいつもに比べ手につかない状態が、僕たちには怒っているふうに見えただけなのだろう。たぶん。 「…あの。もしかして、来られなくなった、なんて可能性も、」 「いいえ」  おずおず切り出した僕の言葉を、確信を持って遮る。 「あの子はなにがあったって来るわ。そういう子なの」  ああきっと、僕なんかには想像つかないほど、先生はかのひとを信頼しているんだろうな。思ったというより、納得した。すきだから、そしてたぶん好かれている自負があるからこんなにも信じていて、だからこそひと一倍心配しているんだろうと。  がらら。雷が近付いてくる。見る間に景色が暗くなり、そうして一瞬の静寂ののち、激しい雨が地面を打ち始めた。 「…大丈夫かしら、あの子。まさか迷ってないとは思うけど」  音を聞き咎めた先生の精緻な横顔が不安に曇る。先生のそんな表情を、僕ははじめて見た。  なにか声をかけなくちゃ、でもなんて言葉を。どう言えば先生の気落ちした心を拾えるかと頭を抱えていたそのとき。  それまで遠くを見透かしていた先生が突然駆け出した。あまりの素早さに思わず先ほどまでの視線を追う。窓の向こう、草木の濡れそぼる庭の奥の奥に見える、ひまわりみたいな色。目をこらさなければ判別つかないそれに、もう外へと飛び出した先生が走り寄っていく。  グローリア。  雨音を縫って聞こえた名前は件のそのひとのもの。先生の言っていたことは本当だった。彼女は必ず来る、なにがあっても。 「タオルとお風呂とあたたかい飲み物を用意しておこう、ほらはやく」  僕と同じように窓の外のふたりを見つめていた仲間に声をかける。先生もきっとご一緒されるだろうから、タオルも飲み物も、忘れずふたり分。  ああそれから、 「みんな。しばらくは先生のお部屋に近寄っちゃだめだよ」  じゃないと本当に嵐を呼ばれちゃいそうだから。口にしなかった言葉を胸に、僕も急いでタオルを取りに向かった。 (グローリアさん、お風呂が沸いてますので、お早く) (ほらグローリア、早く入りましょう) (あなたまで当然のように一緒なのね、カルロッタ)
 嵐を呼んだってふしぎじゃない。  2020.2.5